ハワイの移民の歴史は、1778年にジェームス・クックを船長とするイギリス船の来航から始まったということができます。海の探検家としてヨーロッパに名をはせたクックが、ハワイ島で1779年に原住民に殺害されたことが、“ハワイ発見”を一層、欧米社会に広く知らしめることになったはずです。
それから1820年までの間に多くの欧米人がハワイを訪れ、その中にはハワイに定着した者も少なくなかったようです。特にカメハメハ1世は、そうした白人たちの協力と彼らが持ってきた近代的兵器を使って、ハワイ諸島を統一し、王朝を成立させたのです。そして、白人の中から宮廷の高官となる者も出ているのです。
しかし、集団的移民と言えるものは、1820年3月にアメリカのニューイングランドからプロテスタント伝道師団が渡来したときが最初だったということができます。ただし、ハワイアンの祖先たちがタヒチからハワイに大量移住したことは除きます。
当時のハワイの王は、カメハメハ1世の息子リホリホがカメハメハ2世として即位していましたが、1世の遺言により実権は1世の王妃の一人だったカアフマヌ王妃が握っていました。摂政の地位にあったカアフマヌ王妃は、女性ゆえにハワイの古い伝統を打破していきました。というのも当時、ハワイでは女性に対して、さまざまな制約があり、それを守っていては到底、権力を揮うことなどはできなかったのです。例えば、男女同席の食事はタブーとされていましたから、政治に欠かせない宴会などにも出席できないのでは、摂政の役割を果たせないということにもなるからです。カアフマヌ王妃は、女性に差別的なタブーを次々と否定していっただけでなく、タブーの根源とも言える、ハワイの民族的な宗教も否定していくことになります。
そうしたところに、男女平等を原則とするプロテスタント伝道師団が移住してきて、キリスト教の伝道を始めたのです。通常、外来宗教は旧来の宗教によって弾圧を受けるのが普通なのですが、ハワイは当時の最大の権力者(カアフマヌ王妃)が在来の宗教を否定していたのですから、むしろキリスト教は歓迎され、カアフマヌ王妃だけでなく2世の王妃ケオプラニやマウイ島の女酋長カピオラニまでもが率先してキリスト教に改宗してしまいました。そして、キリスト教をもたらした白人たちは当然の結果として、ハワイアンに対する優位性を確保することになったのです。
伝道師たちは、文字のなかったハワイ語にアルファベット文字を当てはめ、ハワイ語で記録できるようにし、さらに印刷技術を教え、子どもの教育のために学校を設立したりしました。ハワイ島には最初のモクアイカウア教会が建てられ、ハワイ語による聖書も印刷されました。同時に、半裸のハワイアンに対して衣服の着用を強制し、フラダンスやサーフィンなどハワイの伝統的な文化を否定していくのです。
その後35年間にわたって、14の伝道団が渡来して来ました。さらに、これらの伝道団に続いて数多くの白人も移住してきました。しかし、白人の増加に反比例するように、ハワイアンの急激な人口減少が起きていました。カメハメハ大王の時代に15万人とも25万人とも言われていたハワイアンは、その後100年間で約4万人までに激減してしまうのです。それは、白人たちがありとあらゆる伝染病を次々に持ち込み、当時のハワイアンは、そうした伝染病に全く抵抗力がなかったためです。カメハメハ2世は王妃とともに、ロンドンでかかった“はしか”によって逝去してしまったことは、その象徴的な出来事といえます。
こうしたハワイアンの人口減少による労働者不足が、中国人や日本人の移民を必要としていくことになるのです。
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