白檀輸出時代
ビャクダン。数はまだ少ないが多くの土地で繁殖している |
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クック船長率いるイギリス船がハワイに到着するまでのハワイは、タロイモ栽培などの原始的な農業と漁業による自給自足の生活が営まれていました。まだ、貨幣経済は発達せず、わずかな物々交換が行われる程度に過ぎなかった経済社会だったようです。
クック船長らが最初、神のように崇(あが)められたのも、彼らが所持していた釘が細いのに堅く、しかも釣り針にも加工できるということなど、西洋の物質文明に過剰に反応したためだったと言えます。カメハメハ大王がハワイ全土を統一したのも、銃砲という西洋の近代的な武器をいち早く導入したことによります。
カメハメハ大王は、銃砲などの購入資金をどうしたのでしょうか。西洋人はただで武器を与えたわけではありません。その資金は当時、ハワイに自生していた白檀(サンダルウッド)を輸出して得ていたようです。白檀は家具や彫刻の原木として珍重されましたから、王家の独占事業にすることによって莫大な利益をあげ、王朝の財政を支えていくようになりました。一度得た収入は、さらに多くの収入が必要となり、次第に白檀の輸出量は多くなって、結果的に白檀の乱獲となっていきました。
天然の白檀は無尽蔵ではないので、資源は次第に枯渇していかざるをえなくなります。1830年ごろには白檀はハワイからほとんど姿を消してしまいました。こうして白檀の貿易時代は、白檀が伐採できなくなるとともに終幕となりました。
捕鯨船寄港時代
ビショップ博物館に展示されている巨大なマッコウクジラの解剖図
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次に白檀に代わってハワイに多くの収入をもたらすことになったのは捕鯨船の寄港でした。19世紀はじめに日本近海でマッコウクジラが発見されたことにより、アメリカの捕鯨船が太平洋を横断して、日本近海で捕鯨をするようになりました。アメ
リカ人は鯨の肉を食べる目的で捕鯨をしたのではなく、主にランプ用の鯨油を採るためだったのです。そのため油分を取り去った生肉の多くは海中に捨てられていました。日本人なら鯨のどの部分も捨てずに利用していたのですが...。ハワイでは白檀を乱獲していましたが、アメリカ人は太平洋の鯨を乱獲していたのです。
アメリカ大陸の西海岸から太平洋を横断して、日本近海にたどり着くためには、寄港地としてハワイは最適な中継地でした。捕鯨船は3、4月にハワイに寄港し、5月ごろに日本近海に向かい、そして9月ごろには再びハワイに立ち寄ってアメリカ本土に戻るというサイクルを繰り返していました。こうしたサイクルは1810年ごろから1880年ごろまで続きます。
オアフ島のホノルルやマウイ島のラハナイは捕鯨基地として賑わい、最盛期には400隻もの捕鯨船が寄港したと言われてい
ます。当時のハワイ王国政府は、捕鯨についてはほとんど関心を示さなかったのですが、寄港による経済的な恩恵には大きな関心を持っていたはずです。日本近海での捕鯨は、やがて鎖国を墨守してきた日本に対する開国への圧力となっていくのですが、徳川幕府がペリー艦隊に屈して開国を始めるころには、捕鯨そのものは最盛期を終えて、衰微に向かい始めていました。それは鯨資源の激減とともに、石油という安価な代替品の発見があったからです。
サトウキビ産業の勃興
1835年、イギリス人のウィリアム・フーパーがカウアイ島ホノルル近郊のコロアで、耕地を開いて砂糖の原料になるサトウキビプランテーション(耕作会社)を設立しました。また、アメリカやフランスが製糖所を設置するようになり、特にフランス人が新しい製糖方法を取り入れて以来、ハワイ産砂糖は市場で採算性のある値が付けられるようになったことから、ハワイ諸島各地で白人の資本家による砂糖産業が興ってきました。特に1850年代にはアメリカ本土の砂糖需要が拡大し、ハワイ経済を支える大産業にまで発展を遂げることになりました。
サトウキビ栽培には、広大な土地と、砂糖1ポンドにつき1tが必要とされる水、それに安い労働力がそれぞれ必要でした。
ハワイには元々土地を所有するという発想はなかったため、 外国人である白人がプランテーションを運営にするためには、土地の私有制度が不可欠だったのです。1848年に土地私有制度
「グレートマヘレ」が導入され、ハワイ全土が国王と245人の族長に分配されました。このことによって、外国人の白人は国王や族長たちの土地を借りることが可能になったのです。そして2年後の1850年には外国人の土地所有が認められ、白人投資家は王や族長たちから土地を買い占めることことができるようになり、プランテーションにとっての土地問題は早い時期に解決してしまいました。
その典型的な例は、1863年にニュージーランド人のエリザベス・シンクレアがカメハメハ4世から1万ドルとピアノとで、
ニイハウ島を譲渡されたことを挙げることができます。
次の問題となった水資源の確保についても一応の解決ができました。ハワイ諸島の一般的な傾向として、諸島の北東側は降水量が多く、南西側は降水量が少ないという自然条件があります。サトウキビプランテーションも、当初は降水量の多い、諸島の北東側の土地に開設されていきますが、それだけは土地が不足したため、降水量の少ない、諸島の南西側にも開設されるようになっていきます。そのため、水資源の豊富な北東側から
南西側に長い水路が造れられるようになりますが、それには多くの日系移民が少なくない犠牲者を出しながら築いていくことになります。
19世紀初頭にサンフランシスコから乗船するアメリカ人の移民風景 |
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もう一つの安い労働力確保の問題は、当初はハワイアンが対象でしたが、前回で述べたように、移住した多数の白人とともに、多くの伝染病をはじめとする諸病が持ち込まれ、ハワイアンの急激な人口減少が起きていましたから、ハワイアンの使用は到底できない相談でした。その埋め合わせに移民が必要とされるようになったのです。そのため、ハワイアンと同系の民族であるポリネシア人や、資本家と同じ白人であるポルトガル人が最初の標的になりました。
しかし、ポリネシア人のいる南太平洋地域は当時、イギリスやフランスの植民地であり、多数の移民を出すことには、これらの本国政府から反対されてしまいます。もっとも、農耕民族でないポリネシア人には、サトウキビ栽培という過酷な労働には不向きな面もあったようです。
また、ポルトガル人はポルトガルがハワイから遠過ぎることや、ポルトガル人がハワイに来る場合は、必ず家族連れであることなどから、安い労働力というわけにはならなかったのです。このためポルトガル人は耕作地の現場監督者として雇用される場合に限定されることになるのです。
次にサトウキビプランテーションの経営者たちが目をつけたのは、中国人でした。外国人の土地所有が認められた1850年には、早くも中国から初の移民が到着することになるのです。
【用語解説】
*白檀【びゃくだん】sandalwood
ビャクダン科の半寄生常緑高木。主にインドから東南アジアの熱帯雨林気候の地域で産しています。心材は硬く芳香があるため、昔から仏像や数珠、扇の材として、また細片は香木として珍重されてきました。現在、高木としての小売価格で1gで
品質により10〜100円はするようです。
*マッコウクジラ【抹香鯨】Sperm Whale
クジラ目・歯クジラ亜目・マッコウクジラ科。歯クジラ類中最大で、大きいものは全長 20m近くもあります。3000mもの深海に潜る能力を備え、1時間以上も潜ることができるそうです。メルヴィルの『白鯨』は、このマッコウクジラで、ピノキオが飲み込まれるのも、このクジラです。
*さとうきび【砂糖黍】sugarcane
イネ科の多年草。甘藷(かんしょ)とも言います。製糖作物として熱帯を中心に世界各地で栽培されています。形状は黍というくらいですから、トウモロコシによく似ていて、茎の高さは2〜3mにも達し、茎の汁液にショ糖を含み,砂糖の原料になります。ラム酒の原料でもあります。
■次回は「日系移民の先輩、華系移民の苦闘」と題し、東洋人の中では最も早くハワイに到着した中国人移民にスポットを当てます。 |