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出稼ぎから移民に
サトウキビ畑の労働者不足が深刻化すると、3年から5年という期限付きで中国人がハワイに渡った。 |
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中国人は東洋人の中では最も早くハワイに到着していました。というのも、クック船長がハワイを来訪して以来、ハワイに寄港する、欧米の船が徐々に増えていくことになりますが、その中には中国との交易を目的として太平洋を横断する際に、ハワイに立ち寄る船が少なからずあったからです。これらの船には雑用など下級船員として中国人が数多く乗り込んでいる場合がありましたから、ハワイでも中国人の存在が比較的早くから知られるようになっていました。
1850年に外国人の土地所有が認められ、白人投資家がサトウキビ・プランテーションの経営のため、多くの土地の買い占めに走るのと同時に、労働力として中国から初の移民約200人がハワイに到着しました。そして6月、ハワイ議会は召使法を可決して、プランテーションなどでの半強制的労働を容認しました。翌年の51年には中国アモイから280人、香港から522人の中国人が到着、月3ドルの5年契約でプランテーションの作業に従事することになりました。
さらに52年には官約移民制度が導入され、ハワイ政府による公認の移民制度が始まりました。 そうして50年間にわたり、中国人移民4万6000人がハワイの地を踏むことになりました。彼らは当初、出稼ぎとして5年契約が終われば中国に戻るつもりでいたようですが、その半数は契約期間が終了してもハワイにとどまっていきます。中国人たちは出稼ぎ人から移民へと変わっていくようになりました。後に、日本人も同じような経緯をたどることになります。
商売で成功する華系移民
初期の中国移民は男性の単身者が多かったが、家族持ちは子どもたちのために幼稚園を設立した。
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ハワイにとどまることになった中国人は、5年の契約が終わると、月3ドルないし4ドルの労賃の中から爪に灯をともすようにして蓄えた元手で、わずかな畑を買って自分でサトウキビ栽培を始める者や、金融業を始める者、さまざまな小商売を始める者などが輩出し、プランテーションからは離れて行ってしまいました。元々、中国人は商才にたけていますから、いつまでも半奴隷的な生活には到底、耐えられなかったのは当然といえるでしょう。
金融や商売を始めた中国人は、その多くが成功していきます。ハワイにある地元資本の銀行の大部分が、これら中国人の経営から出発していると言われているほどです。また、中国人は互助精神が旺盛なところがあって、店を構えるにも中国人同士で固まるという風潮があって、やがてチャイナタウンが形成されていくことになります。革命を目指していた孫文が清朝政府の追求を逃れるため、1878年からハワイに一時、移住できたのも、ハワイにおける中国人社会の成立のおかげといえます。
一方、自作農となった中国人の多くは、困難な問題に直面していきました。 5年間とはいえ、月々わずか3〜4ドルの賃金の中から、わずかに蓄えた元手だけでは、それほど広い耕地を購入することはできなかったということがあります。不作のときは、もちろん大きな打撃を受けますが、豊作のときには逆に買いたたかれるという具合に、農業経営はけっして安定しているわけではありません。そんな中、1875年にアメリカ・ハワイ
互恵条約により真珠湾をアメリカの軍港として貸与する見返りに、ハワイに対する関税が撤廃され、サトウキビ栽培に一層の拍車がかかることになりました。各プランテーションは耕作地の拡大に躍起となっていきます。
ハワイ全体でもサトウキビ栽培に適した土地は、水源の確保などの問題から限定されていました。 プランテーションの経営者たちは、荒れ地の開拓を進める一方で、手っ取り早い方法として中国人自作農の耕地に目を付け、吸収しようとします。
中国人側は当然、安い金では手放そうとはしません。業を煮やした一部のプランテーション経営者は、刈り入れ直前の中国人のサトウキビ畑を無法者に命じて火を付けさせるということまでやっています。特に、政府の目が届きにくい辺鄙(へんぴ)な土地では、とがめる者もいなかったのですから、火付けだけでなく、中国人自作農を追い出すためのさまざまな不法行為が行われたようです。収穫直前の農作物に2年も続けて火を付けられれば、いかな中国人であっても破産状態となって、二束三文でも農地を手放さなければならなくなります。
米本土の中国人排斥運動が波及
チャイナタウンが誕生すると中国移民のための雑貨店や食堂、床屋などが続々と誕生した。 |
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1865年ごろから、中国人労働者に代えて日本人労働者を導入しようという動きがハワイ政府の中から起きてきました。その理由として、中国人自身の問題、例えば中国人だけでコミュニティーをつくってなかなか現地に溶け込むようにしないので、プランテーション経営者に嫌われたなどという非難がありますが、こうした理由付けは、実は後に日本人移民に制限が設けられたときにも同様に持ち出されたものでした。
その当時からハワイ政府は、アメリカ中央政府の顔色をうかがうようになっていましたから、アメリカ本土で中国人排斥が行われているなら、それに従がおうということだったようです。
実は、ハワイで中国人労働者の受け入れをやめようとした最大の理由は、アメリカのカリフォルニアで増えすぎた華系移民
(と言っても、白人移民に比べたら大した数ではありませんが)に対する排斥運動が起きていたからです。 アメリカでは華系移民が歩まされてきた道の後を、日系移民もいずれ歩むことになりますが、白人たちの東洋人蔑視が、その時々の最も有力な人間たちに対する言われもない理由による集中攻撃となって表れていくようです。後に、日系移民が華系移民より悲惨な目に遭うことになるのは、本国の軍事力の違いによるだけだったと言っても過言ではないでしょう。
中国人の後釜に指名された日本人
ハワイに来航したアジア唯一の船として、西欧人に驚きの目を持って迎えられた。 |
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なぜ、中国人の代わりに日本人が選ばれるようになったのでしょうか。 それは一つには前回にも書いたように、ハワイに最も近い太平洋西岸地域や南太平洋諸国のほとんどが欧米列強の植民地だったことによります。当時、独立国家は、日本、中国、李氏朝鮮(現在の韓国・北朝鮮)ぐらいなもので、フィリピン、インドシナ(ベトナムやラオス、マレーシアなど)、インドネシア、南太平洋諸島は英米仏蘭などの植民地でしたから、多数の移民をハワイに出すことを、それぞれの本国政府が嫌っていました。
ハワイ王朝は、その数少ない独立国の中では日本に対して特別な思い入れがありました。1860年に徳川幕府が派遣した遣米使節団が、帰路ハワイに立ち寄ったことがありました。このとき、勝海舟を船長とする「咸臨丸」が、欧米以外の蒸気船がハワイに入港したのは、この「咸臨丸」が初めてだったわけですから、小船とはいえ欧米列強に伍して太平洋を往復した日本に対しては、驚異の目を向けるようになっていました。
次回は『日本人最初の集団移民−−「元年者」の渡航問題』と題し3月4日発行予定のアロハWEBカワラ版36号に掲載いたします。 |
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