1868年6月19日、ハワイへの日本人集団移民第1号となる153人(男148名、女6名という説などもあります)を乗せたサイオト号が、ホノルルに到着しました。前回で記載したように、サイオト号は政権を樹立したばかりの明治政府の許可を得ないまま、横浜を出港するという異常なスタートを切ったわけですが、ホノルル到着に際しては、ハワイの人々から大歓迎を受けることとなりました。当時の地元の新聞には 「彼らは温良かつ有用な労働者になるだろう」と期待され、ハワイアンからも白人からも好意的に受け入れられたようです。
マウイ島プウネネ。日本女性による灌漑作業の風景。(1912年) |
|
そうした期待の中で、彼らは二十数人ずつに分けられて、プランテーションに就労することになったのですが、現実はそんなに甘くなかったようです。炎天下の耕作地での1日10時間(12時間という説もあります)以上もの労働は、生やさしいものではなかったのです。何ヵ月もしないうちに、彼らの中から不満の声が上がり始めました。生活習慣が異なり、しかも言葉が全く分からないという不慣れな生活環境のなかで、ストレスが急速に蓄積されていったこともあったでしょう。実は、後に元年者と言われるようになる彼らの多くは、農業の経験が全くない、都市生活者だったことも、慣れない農作業が一層、過酷なものと受けとめられることになったようです。ただ、12時間というのはどうでしょうか。冬至の前後1ヵ月ぐらいは午前5時以降および午後6時以前は外では暗闇になったでしょう。また、日本での農耕も日の明けと同時に働き、日暮れとともに作業をやめるという状態が、普通だったでしょうから、労働時間だけでは労働が過酷だったかどうかは即断できないのではないでしょうか。
一説にはハワイ政府から総領事に任命されていたユージン・バンリードが蛇1匹捕まえると1ドルもらえるなどという空約束までして、移民を募ったという話もありますが、ちょっと信じ難いものがあります。リードは人身売買まがいのことをやっていたと非難する論調もあるものの、当時の世界的な労働条件などを勘案しないまま、現代の物差しで判断すると、バンリードのイメージは相当に悪いものになってしまいます。
記録によると、移民希望者はバンリードの代理人との間で、契約期間3年間、1ヵ月の賃金4ドル(当時の日本では1ドル=1両ぐらいの感覚だったのでしょう)、渡航船賃や滞在中の住宅・食糧・治療費などは経営者側が負担するなどという条件で、きちんとした契約を取り交わしていたといいます。賃金などは初期の中国人移民よりは高かったということが言えます。
マウイ島プウネネ。サトウキビ運搬用貨車での昼食風景。(1912年) |
|
しかし、賃金の4ドルのうち、現金でもらえるのは半分の2ドルだけで、残りの半分は手形だったということです。江戸時代、日本でも手形という決済方法は商業上では行われていましたが、一般的にはほとんど知られていないものでしたから、当時の日本人移民には、そうした仕組みについては、実際は十分に理解できていなかったのではないでしょうか。また、当時のハワイの物価は急騰していたといいますから、日本で考えていた4ドルの重みがハワイに来てみてかなり目減りしていたなどの不満も出ていました。
こうした不満が蓄積されるにつれ、雇用主との間で、いさかいが起きるようになりました。中には農場に出ていこうとしない者や仮病を使って農作業を拒否する者も出ていました。そのため、主にポルトガル人が勤めていた農場の監督者(「ルナ」と いったようです)が、監督者としてのノルマを達成するために、暴力的な実力行使(鞭をふるったなど)に訴えることもあったようです。こうした状況の中で、一部の元年者は、早くも日本帰国を熱望するようになりました。
そうしたことがアメリカ本土、特に西海岸に「日本人移民の苦難」として誇張して伝わり、大々的に英字新聞で報道されてしまいました。こうした報道を見た在米の日本人や、元年者の代表者が明治政府に窮状を訴える手紙や嘆願書を出したことから、明治政府も放っておけなくなり、ハワイへの特使を派遣するという事態にまで陥ってしまったのです。
元年者が渡航する際の一般的な服装と携行品(柳行李) |
|
1869年12月に民部監督正という役職にあった上野景範がハワイに到着し、ハワイ政府に移民の送還と、バンリードの処罰を求めました。交渉は難航しましたが、上野特使が調査した結果、日本人移民の不満の多くが生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる誤解などによるものが多く、風評ほどの過酷な労働を強制されているというような状況ではないことが明らかになってきました。特に、日本への帰国を希望する者は少数で、多くの者がこのまま就労を続けたいという希望であることも分かってきました。
結果的には、ハワイ政府がバンリードの総領事罷免を確約したことから、上野は帰国希望の約40名を日本に帰国させて日本とハワイの交渉は一応、解決しました。残る約110名は無事に3年間の就労を終えましたが、その後、日本に帰ったのは、わずかに11名だったといいます。それ以外の元年者の半数は、賃金の高いアメリカ本土へ移住し、ハワイに残留したのは40名強だったようです。ハワイに残留した元年者のほとんどは、ハワイアンの女性と結婚し、本当のハワイ移住民となりました。
元年者の移民はスタート最初からトラブルが続き、その対策に苦慮した明治政府は海外への移民については慎重な態度をとるようになりました。明治政府は、この後、20年近くにわたって、海外移住を許さず、その代わりとして北海道開拓を推進するようになりました。しかし、これも必ずしも元年者だけのせいではありませんでした。 海外集団移住の2番目といえるアメリカ・カリフォルニアの若松コロニーへの入植は、もっと悲惨な状態で終わったということも忘れてはならないでしょう。
こうしたことから言えば、元年者の移民は失敗に終わったという評価が生まれてくるのもやむを得ないことでした。しかし、ハワイ側から見ると、日本人移民に対する評価はけっして下がってはいなかったのです。むしろ、ますます日本人移民を必要とするように感じていました。それが後の官約移民へとつながっていくことになるのです。
そして、上野特使派遣後の1871年8月、日本ハワイ修好条約が結ばれ、バンリードは条約締結に奔走した功績が認められ、日本政府の公認のもと、正式なハワイ総領事に就任します。
|