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民約移民 - ハワイ日系移民の暗黒時代
柏木 史楼

 官約移民は、炎天下のサトウキビ畑での過酷な労働に従事しなければならないという現実があったとしても、ハワイ日系移民にとっては黄金時代であったということができるでしょう。それは、日本とハワイとの間に「日本ハワイ渡航条約」があり、一定の労働条件が決められていて、曲がりなりにも政府によって守られていたからです。

アメリカ人による宮殿の占拠

 この官約移民時代は、ハワイ政府というよりハワイ王朝が、日々増大していくアメリカの圧力におびえながら、日本との関係に唯一、精神的な救いを求めていた時代でもあったといえます。ハワイ政府の実権は、もはや王朝の手から離れ、大臣以下の白人官僚の手に独占され、王朝は有名無実になっていたのです。しかし、こうした事態に陥った原因は、ハワイ王朝が自ら招いた結果であったということが言えるでしょう。

 1876年に米国・ハワイ互恵条約締結が結ばれていますが、この条約によって、ハワイからの農産物は無関税でアメリカに輸出できることとなり、当時アメリカ本土で砂糖の需要が急増していたこともあって、サトウキビ産業は飛躍的に増大することができたのです。アメリカはそうした関税特権をただでは与えたりはしません。その見返りとして、ハワイ政府はオアフ島の真珠湾の軍事利用を認めたのです。これによって、ハワイはアメリカの軍事基地となっていきます。アメリカは太平洋におけるハワイの軍事的重要性に気が付いたのです。

 また、ハワイ国内の経済事情から言えば、プランテーションを経営していた白人の経営者たちが、ビッグ5と呼ばれた財閥にのし上がったように、ハワイ経済を握ることになっていったのです。この白人たちの父祖は、もともとは宣教師としてアメ リカ本土から渡ってきた人たちでした。また、大臣以下の高級官僚も白人たちが独占するようになり、事実上、政治・経済の実権を握っていたのです。

リリウオカラニ

 こうした動きに、当然のことながらハワイアンの中から民族主義的な動きが出てきます。そして、この動きに乗って王朝側からハワイアン優先主義の政策が打ち出されようとします。1893年、リリウオカラニ女王は王権の強化拡大をうたった新憲法を、議会を無視して強行施行してしまいます。これに怒った白人たちは、リリウオカラニ女王をイオラニ宮殿に幽閉してしまいます。白人たちは、この無血クーデターを起こす以前から、アメリカに対してハワイの併合を要求していたといいます。

 しかし、さすがのアメリカも、即位して間もないリリウオカラニ女王を追放して、ハワイを直ちに属領にしてしまうことには躊躇(ちゅちょ)せざるを得なかったようです。そのことを不満に思っていた白人官僚や有力農場主たちが、新憲法の強行施行をきっかけにクーデターに踏み切ったというのが真相のようです。

 これが、いわゆるハワイ革命です。これによってカメハメハ1世から始まったハワイ王朝は、約100年の歴史の幕を下ろすことになります。そして、アメリカは、このクーデターを待っていたかのように、5年後の1898年、ハワイを属領にしてしまいます。革命からわずかな期間でしたが、この時期を、官僚たちの支配による共和国時代と呼んでいます。

日系移民の集落

 このハワイ革命によって、単にハワイの政体が変わったとい うことにとどまらず、ハワイの移民の形態が大きく変更されることになるのです。日系移民は渡航条約という保護を失い、アメリカの移民法が適用されることになったのです。

 ハワイ革命からハワイのアメリカの属領化という過程で、官約移民は中止され、移民事業は政府の手から離れ、代わって移民事業会社が1894年から続々と設立されていきます。ハワイへの移民は、プランテーションなどからの委託を受けた移民事業会社との契約となったのです。移民事業会社は利益をあげるために、今で言うところの悪徳商法のようなやり方で、不当な条件を移民希望者に押し付けるようなこともでてきたのです。その一方で、頭数さえそろえばよいという、プランテーション側にとってもありがたくない移民を送り込んだりすることもあったようです。そうした者の中には、一獲千金を目的とした出稼ぎ気分の者も少なくなかったのです。

20世紀初頭の日本人バー

 その結果、プランテーションに雇われた者も、官約移民時代よりも劣悪な労働を強いられるようになり、移民の中には絶望 して自暴自棄に陥る者も少なからず出てきます。その一方で、もともと無頼の徒としてハワイに来た者もいたわけですから、そうした両者が相まって、日系移民の中に酒・賭博・麻薬・売春がはびこるようになってきます。ハワイ日系移民にとって暗黒時代であったと言えます。

 売春がはびこった背景には、この時期の移民は圧倒的に男性が多かったということもあります。官約移民時代には、日系移民は華人系などほかの国の移民と比べると、家族同伴の比率が高かったのですが、この民約移民の時代になると、単身者の比率が高くなるという状況も、日系社会の乱れをもたらす結果になったようです。

 この時期、ホノルルには日系人の「魔窟」が形成されるようになります。売春宿、アヘン密売所、安宿などが密集し、無法地帯が出来上がっていったのです。ところが、1900年にペストが流行したことから、ペストの防止のために放たれた火が、この「魔窟」に延焼し、焼き尽くしてしまいました。ここに居た日系人は、それぞれちりじりになってしまいます。

 このように、さまざまな弊害を生み出していた移民事業会社の仲介による民約移民が1900年に中止され、ハワイ移民は仲介者が介在しない自由移民時代に移行することになります。官約移民の時代には約3万人がハワイに移住していますが、この民約時代は1900年までに約3万5000人がハワイに移住しています。その結果、1900年のハワイ総人口に占める日系人は、40%ほどになっていました。


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