【排日移民法の制定】
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1924年当時の連邦議会議事堂 |
1924年、アメリカ連邦議会は、移民法を改正し、「帰化不能の外国人の移民を認めない」という、いわゆる排斥条項を加えました。「帰化不能の外国人」が日本人であることを移民法には一言も触れられていませんが、既に、日本生まれの日系移民、つまり移民一世はアメリカの国籍を取得できないことが連邦最高裁の判例として確立していたのです。それゆえに、24年移民法は排日移民法と言われたのです。この法律改正によって、それまで日米間の移民規制となっていた紳士協定は自動的に破棄された形となり、日本人の移民は全面的に禁止されることになったのです。もちろん、この中には唯一残された移民方法であった呼び寄せ移民も含まれていました。
連邦議会で同法が審議されているさなか、日本の埴原正直駐米大使がヒューズ国務長官に送った書簡には、「排斥条項が制定されれば重大な結果をもたらす」と恫喝とも取れる警告が書かれていました。その内容が公表されると、アメリカの議会も世論も、一斉に反発し、移民法は上下両院で一挙に可決されてしまったのです。
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チャールズ・E・ヒューズ |
アメリカは南北戦争(1861-65年)の直後、帰化に関する法律として『改正法典』の第2169条で、「自由なる白人およびアフリカ人ならびに、その子孫たる外国人に適用する」と規定しました。これを見れば、白人およびアフリカ系黒人以外には帰化の対象としないように読み取れますが、このときの法律の理念は、連邦政府が南北戦争に勝利した結果として、解放された黒人奴隷をアメリカ市民として受け入れるということに主眼を置いたものに過ぎなかったはずです。当時、アメリカには日本人は移民どころか留学生も存在しなかったので、日本人を差別しようという意図は全くなかったはずですし、中国人を含めたアジア人の帰化問題も念頭になかったはずです。
その後、1882年には中国人排斥法によって中国人の入国が全面的に禁止され、翌83年には中国人は「アメリカに帰化することができない」という条項が『帰化法』に明記されました。アジア人に対する、アメリカの制度的な人種差別の始まりといってよいでしょう。さらに、1906年の『新帰化法』改正で、施行細則第21条で、「裁判所書記は白人およびアフリカ人ならびにその子孫以外の外国人からの帰化申請を受理してはならない」と定めました。ここでは明らかに白人とアフリカ系黒人(つまり、奴隷として連れてこられた黒人とその子孫)以外は、帰化できないと明文化されたのです。
下って1917年の移民法改正では、それまでのヨーロッパ、特に南欧や東欧からの「新移民」規制から、アジアからの移民の規制に重点を移すことになりました。ただし、この規制には日本人、中国人、フィリピン人は除外されていました。日本人は日米紳士協定による移民の自主規制があり、中国人は既にアメリカ入国の全面禁止措置がとられ、フィリピン人は当時はアメリカの属領として準国内人扱いだったからです。しかし、これによってフィリピン人と、日本人の呼び寄せを除くアジアからの移民はほとんど不可能になりました。そして、最後のとどめとして1924年の移民法改正となったわけです。
【帝国臣民の帰化は非国民的行為】
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当時の日系ハワイ移民家族 |
しかし、日本側にも問題がありました。日本政府は日系移民の帰化を嫌っていたのです。当時の日本人の移民意識は、出稼ぎであって帰化ということは念頭になかったこと、日本政府も日本人が移民先の国籍を取得することは、帝国臣民から離脱する非国民的行為であるととらえていました。これでは日系移民が移民先の国の市民権をとろうとしなかったのは当然でした。何万人もの日系移民がいながら、ほとんどアメリカの市民権を取得しようとする者がいなかったことにアメリカ市民からは警戒と不審の目が向けられるのもやむをえなかったことかもしれません。少数でしたが、日系移民の中にも市民権を得ようとして、裁判に訴えた日系人がいました。そして、日本大使館に援助を求めようとしましたが、ほとんど何の援助も受けることがなかったのです。
ところが、1924年移民法改正では、日本政府は猛然とアメリカ政府に異を唱えたのです。そして、埴原駐米大使が国務長官に対して脅迫するような書簡を送りつけるという外交政策上、大きな失態を演じ、アメリカ全土に一層の反日感情をかき立てることとなったのです。この埴原駐米大使は、1917年の移民法改正でも、日本人に対する移民制限は「中国人、インド人、及びその他の劣等なる有色人種と同一の取扱いをするものだから、この法案は日本人に対する重大な侮辱である」と抗議しています。第一次世界大戦中(1914年〜18年)のこととて、日本が連合国側に立っていたため、アメリカに対しても強い態度に出られる状況にありましたが、同じアジアの諸国民を劣等扱いにするなど、当時の日本の思い上がりを象徴するような態度でした。むしろ、日本政府はアジア諸国と連携して、アメリカのアジア人蔑視をたしなめることこそが重要ではなかったかと悔やまれる対応でした。
日本政府が1924年の移民法改正に強く抗議したのは、日系移民を慮ってのことというよりは、日本国内における反米感情を煽る目的があったということができます。これに呼応するように、日本ではアメリカに対する敵愾心が一挙に高まり、日米開戦を望む声さえ出てくるようになりました。また、既に日本は台湾、朝鮮半島、そして満州における植民地化を進めるに従って、日本の移民政策は南北アメリカから東アジアへと、その重点を移していました。そして、ハワイを含む南北アメリカ大陸の日系移民は、日本政府から帰化を禁止されたまま、日米開戦によって、その母国日本から完全に見捨てられることになるのです。そして、多くの日系移民が、当該国から敵国人として、裏切られた母国の代わりに報復を受けることになります。
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