【ハワイ日系兵士だけの第100大隊】
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オアフ島マカプウに設営されたトーチカ
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1941年12月8日(ハワイ時間では7日)の日本軍によるハワイ軍港、真珠湾の攻撃は、ハワイの日系社会を一変させることになりました。即日、夜間外出禁止令がハワイ全土に敷かれ、日系人のうち、各団体の責任者や日本語新聞関係者など、日系社会の指導的立場の者たち約2000人が逮捕拘束され、そのうち700人ほどがアメリカ本土の収容所に送られてしまいます。もちろん、そのほとんどは、日本国籍だけの移民一世だったことは言うまでもありません。
日系一世の中でも、指導的な立場にあって、皇民思想を堅持していた保守派の人たちが日系社会から隔離されたため、それまで抑え込まれていた日系二世たちのアメリカ母国意識、つまりアメリカへの忠誠意識が急速に高まっていくことになります。そうした日系社会の変化を象徴するように、皇民思想を鼓舞していた日本語新聞も、親米的な論調に変わってしまいます。
このような日系社会の変化にもかかわらず、ハワイの軍当局は日系人に対する警戒心を持ち続けていました。真珠湾攻撃当時、各島の沿岸警備に当たっていた、現役の日系二世兵士は1000人以上もいて、そのほかにも、予備役の者も現役兵以上の数がいましたから、日本軍がハワイに上陸してきたら、これらの日系兵士が呼応するのではないか、ということを恐れたのです。
1942年5月、ハワイの日系現役兵士1400人が秘密裏にオアフ島の陸軍基地に集められ、ウィスコンシン州のキャンプ・マッコイに送られてしまいます。そこで、この兵士集団に第100大隊という隊名が付与されます。アメリカ陸軍では、三つの大隊で歩兵連隊を構成しているのですが、第100大隊は、どこの連隊にも所属しない、独立の大隊として編成されたもので、第100大隊という隊名も、本来はありえない名称だったのです。
しかし、この異例な第100大隊は、訓練を重ねる中で短期間のうちにアメリカ陸軍の中でも最精鋭の大隊に成長してしまいます。あらゆる訓練において、どの部隊でも到達できないような抜群な成績を残し、一躍、陸軍の注目の的となったのです。このことによって、日本人に対する差別意識から日系人の戦闘部隊への参加を拒んでいたルーズベルト大統領も、翻意せざるを得なくなり、1943年1月に正式に日系人の部隊編成を容認することになります。
【日系兵士の戦闘部隊参加】
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1943年、イオラニ宮殿前で行われた第442歩兵連隊の壮行式
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ルーズベルト大統領の容認を受けて、陸軍は日系人部隊の編成のため、アメリカ本土から3000人、ハワイから1500人の日系人志願兵を集める計画を立て、募集を開始しました。ところが、アメリカ本土から応募した者は、わずかに半分の1500人だけにとどまりました。それに反し、ハワイでは1万人もの応募者が出ました。そのため、ハワイの志願兵を2900人に増やし、アメリカ本土分を穴埋めする形で編成をせざるを得なかったのです。
当時、日系人はハワイに16万人、アメリカ本土に13万人ほどが居住して、ハワイ在住の日系人のほうが、若干多かったものの、このように志願者に大きな開きが出たのは、収容所への強制収容の有無が大きな原因になったと言えるでしょう。ハワイ日系人は、700人ほどを除いては、日米開戦前と後とはほとんど変わらない生活が送れたのに対し、アメリカ本土の日系人のほぼ全員が荒地の中の強制キャンプに収容されていたのです。
アメリカ政府は日系人を敵性人とみなして隔離しておきながら、その中からアメリカのために戦う兵士を募ろうという矛盾した政策を採ったのです。自分を含め、両親・兄弟姉妹らが、かばんに詰められるだけの身の回りの品だけを持って、集団キャンプに強制収容されるという屈辱は、アメリカの教育を受けて育った日系二世にとっては、むしろ耐え難いものがあったはずです。それでも、1500人もの応募者が出たのは、むしろ驚異的だったということができるでしょう。当然、家族からは猛反対を受け、父親から勘当を受けるようにして応募した者も少なからずいました。
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イタリア中西部の町リボルノでの束の間の休養
(第100歩兵大隊はドイツ兵が去った後、2週間ほどこの町に停滞しました。) |
それに反して、ハワイでは日系志願兵は日系人だけでなく、多くの市民からも信頼感と期待感をもたれながらハワイを出発していきます。日系志願兵の戦意はいやがうえにも高まっていきました。
こうした相反した立場の日系二世の志願兵が、同じ連隊の兵士としてミシシッピー州のキャンプ・シェルビーで訓練を受けることになります。しかも、ハワイの日系人は独特の言葉(ビジン・イングリッシュ)を話すこともあって、最初はほとんど言葉が通じず、ハワイ組と本土組との間に対立が生じてしまいます。当然、暴力沙汰にもなりますが、戦意横溢なうえに、人数が多いハワイ組に本土組は圧倒されてしまいます。そうした両者の対立をはらみながらも、猛訓練が続けられ、彼らも先輩の第100大隊の兵士同様に、精鋭の兵士に育っていきます。両者の対立も、共に訓練を重ねることによって徐々に解消されていったようです。 |