【第100大隊のイタリア戦線参戦】
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戦場ではいつも死を感じていた
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1943年8月、アメリカ陸軍第100歩兵大隊1400名は、ニューヨークへ移され、21日貨物船でヨーロッパでの実戦配置のために出発しました。アメリカ軍の中で、日系部隊の活用には賛否両論が渦巻く中、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将(後に国務長官に就任)の意向により、日系部隊の実戦への投入が決定したのです。この時、日本反攻に血道をあげていたマッカーサー司令官に日系部隊の編入を打診したところ、あっさり断られたというエピソードもあったようです。
9月2日、第100歩兵大隊は最初、北アフリカのオラン(アルジェリア)に上陸しました。ここに連合軍がイタリアへ進攻するための地中海方面司令部が置かれていたのです。イタリアは第100大隊がオランに到着して間もない8日には連合軍に無条件降伏をするのですが、依然としてナチス・ドイツ軍が占領していました。このため、9日に米英混成の第5軍がソレントに近いサレルノに上陸しましたが、ドイツ南方軍集団による抵抗を受けて、ほとんどサレルノに釘付けの状態になってしまいます。
元々独立大隊として設立されたため、所属連隊がなかった第100歩兵大隊が、イタリア戦線に投入されるためには、どこかの連隊に編入されなければならなかったのです。ところが引取り先が見つからなかったため、司令部からは北アフリカの鉄道守備を打診されていましたが、大隊長のファラント・L・ターナー大佐がこれを拒否し、繰り返し前線への配備を強く申し入れました。しかし、日系部隊だという理由で、なかなか引き取ってくれる連隊がなく、後のアメリカ大統領となったアイゼンハワー連合国軍最高司令官も、日系二世部隊の配属には終始、消極的な態度であったようです。
そうした中、ようやく米陸軍第34師団長のライダー少将が受け入れてくれることになり、第5軍第34師団第133連隊の下に編入されることになります。通常、連隊には3個大隊が配属され、それそれ第1大隊・第2大隊・第3大隊という呼称になっているのですが、第100大隊だけは、第3大隊という呼称に変更されず、発足当初からの第100大隊の名称が残されました。
第100歩兵大隊は編成から1年3ヵ月後にしてようやく、戦場に派遣されることになり、22日にイタリアのサレルノ海岸に上陸し、第5軍の指揮下に入りました。既にドイツ軍は北方へ撤退し始めていたため、第100歩兵大隊は何らの反撃も受けず、無傷で上陸できたのですが、進軍中の29日に、第100歩兵大隊から最初の戦死者を出すことになります。その戦死者はハワイでは野球の有名選手だったシゲノ・ジョー・タカタ軍曹で、大隊の先兵として進軍していたため、ドイツ軍の最後尾を守る最精鋭部隊の攻撃を受けてしまいました。タカタ軍曹には日系兵士最初の特別戦功十字章(DSC)が授与されました。
この大戦中、日系二世部隊が授与された勲章は、第100歩兵大隊を含む442連隊の総勢1万6000人で、個人勲章1万8143個と記録されており、これは一連隊としてはアメリカ軍史上最大とされています。しかし、その勲章の数に比例するように、戦死者は約700人、戦死傷率は314%という高率になっているのです。この死傷率は、つまり連隊兵士一人当たり、平均3回以上も負傷している勘定になるのです。
サルレノからナポリ北方約60kmにあるアリーフェまでの約100kmの進軍では、第100大隊は常に第133連隊の先頭に立ち、100人近い死傷者を出してしまいます。第133連隊全体でも多くの死傷者が出たことから、連隊の斥候役を果たしてきた第100大隊の指揮官であるターナー大隊長が責任を問われ、解任されてしまいます。日系兵士を常に擁護してきたターナー大隊長自身、第100大隊から多くの死傷者を出したことに衝撃を受け、精神的な打撃を受けてしまいました。
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戦死者を葬送曲で送る |
この後、第100大隊はナポリ・フォッジア作戦に投入され、冬季防衛線を死守しようとするドイツ軍に対して、11月3日にナポリ南方のボルツレノ川渡河を敢行します。このとき、日系二世部隊の代名詞ともなる「バンザイ突撃」が初めて行われるのです。一説によると、ドイツ軍の狙撃兵と対峙した日系兵士がライフル銃を撃とうとすると、故障していたのか発射できず、側にあったスコップを振り上げて突進したところ、狙撃兵が武器を投げ捨てて逃げ出したのが「バンザイ突撃」の始まりというのです。それが中隊規模で行われるようになり、絶体絶命の苦境に陥った中隊が、一斉射撃のあと、銃剣を着けて突撃すると、ドイツ兵は恐怖に駆られて逃げ出すことが多かったようです。
しかし、こうした突撃は、多くの死傷者を出さないで済まされるはずもありません。この一連の戦いで第100大隊は戦死者約140人、戦傷入院者400人以上を数えるという大損害を出してしまいます。これは大隊6個中隊が4個中隊規模までに減少してしまうほどの損耗でした。
1月17日、ローマ進攻の前哨戦となるカッシーノの戦いでは、アメリカ陸軍第5軍は連合軍の第1次総攻撃に参加しますが、万全の防衛体制を敷いたドイツ軍に敗退、さしもの第100大隊も多大な損害を受け、後方に引き下がらざるを得なかったのです。もっとも、連合軍は第2次総攻撃でも敗退してしまいますが、第100大隊を含む第133連隊は、この攻撃の途中でアンツィオ橋頭堡に転戦を命じられています。
3月26日、第100歩兵大隊はグスタボ・ラインとローマ間の第二戦線の拠点であるアンチノに上陸します。アンチノもカッシーノと同様、こう着状態にあったのですが、第100大隊が先兵役を務めると、連合軍側の攻勢が顕著になり、第100歩兵大隊はローマの10km手前まで進軍することができました。そのまま進めば、ローマ一番乗りを果たせたはずでしたが、司令部から待機命令が下り、後続部隊がローマへ進軍しました。これは日系部隊にローマ一番乗りという栄誉を与えたくなかった連合軍
司令部の意向が働いているものと推測されます。ローマの連合軍占領は6月5日でした。
【第442連隊にも出征命令下る】
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戦場から母国アメリカの父母へ手紙を書く日系人兵士たち
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第100大隊がイタリアで苦戦している間、アメリカでは第442連隊の訓練が続けられていましたが、第100大隊の奮闘振りが評価され、第442連隊にも1944年4月に出征命令が出されました。5月1日、第442連隊はバージニア州のハンプトン・ローズ港を出発、6月2日にナポリ港に到着しました。6月26日には第100歩兵大隊を含めた第442部隊は、第5軍第34師団に配属されることになりました。
第442連隊はアメリカで訓練を受けている間に、第1大隊が解体され、一部将校や下士官は新しく入隊してくる日系二世兵の訓練にあたり、また兵士の多くは第100大隊の補充としてイタリア戦線に投入されていたのです。そのほかの将校や下士官は、他の2大隊に転属させられていました。そのため、イタリアに上陸した第442部隊には、欠落していた第1大隊の替わりに第100大隊が編入されました。また、この連隊は、上部組織、つまり師団に配属されていないため、本来の連隊では配属されていない野戦砲兵大隊や戦闘工兵中隊、軍楽隊までもあって、ミニ師団の様相を持っていました。この編成のまま、第34師団に配属されたことは、第442連隊がその名称とともにいかに特異な存在であったかを如実に示しています。第442連隊は連隊の域にとどまらず、第442連隊「戦闘団」というほうが実態に合っています。
実は、アメリカ政府は1944年に入ると、日系人の徴兵制を復活させました。これは明らかに第100大隊の活躍が大きく影響しています。しかし、徴兵制を復活させたものの、日系二世兵については第442部隊など日系部隊以外の配属を認めようとはしなかったことを見ると、日系人に対する警戒心を全面的には解いていなかったということが推測できます。
第442連隊は第100大隊と合流すると、イタリアの海岸線を北上、アルノ川沿いの防衛線である、ドイツ軍のゴシックラインへの攻撃に参加します。このとき、連隊長のチャールズ・ペンス大佐は、第100大隊を後方に下げて、第2・第3大隊を先兵に当て、ドイツ軍の強力な抵抗に遭って大きな損害を出します。その危急を救ったのが、第100大隊でした。ペンス大佐にとっては、連隊新参の第100大隊に対する対抗意識があったためと言われていますが、以後、第100大隊の実戦歴を尊重することとなります。
手痛い初陣となった第442連隊は、戦闘を続ける中で、先輩の第100大隊と同様の戦闘能力を高めることができ、連合軍の中で第442連隊の評価がいやが上にも高まっていきました。そうした中、南フランスに上陸した第7軍から第442連隊を欲しいという申し入れが第5軍司令官のクラーク中将にあり、クラーク司令官はこれを拒否したものの、統合参謀本部は第7軍の配属替え認めてしまいます。かつて日系部隊は、どこからも引き取りのない継子扱いだったのですが、いまやどこの師団でも欲しがる存在になっていました。
9月26日、第442連隊は第5軍と別れ、ナポリからフランスのマルセーユに渡り、そこで第7軍第36師団に配属されます。この第36師団は別名、テキサス師団と呼ばれ、実はナポリ・フォッジア作戦で第100大隊とともに戦った経験があり、このときテキサス師団の2個連隊が、わずか40名に減少するという損耗を受けた悲劇の師団でもあったのです。その因縁か、第442連隊もフランス戦線でかつてないほどの大損耗を受けてしまいます。
第442部隊が配属されたころ、第36師団などを主力とする第7軍は、アルザス・ロレーヌ地方まで進出して戦線を形成していました。ドイツ軍の抵抗にあって戦線はこう着状態に陥り、第36師団はボージュ山脈で抜き差しならない状況にあって消耗していました。
そうした状況の中、準備を終えた第442連隊は10月15日、ボージュ山脈に到着し、戦闘に参加することになったのです。そして、最前線でドイツ軍と戦い、多くの犠牲を出しながら、一歩一歩ドイツ軍を追い詰めていきます。
18日にはこの地の要衝ブリュエールに進攻、ドイツ軍によって4年間にわたって占領されていたブリュエールを解放しました。ブリュエール市民は第442部隊を解放者として現在でも語り継いでいると言うことです。また、引き続いて、ベルモント、ビフォンテーヌをも攻略していきます。そして、24日に部隊再編のために休養に入りましたが、第141連隊第1大隊(テキサス州兵第一大隊)211人がビフォンテーヌ東方3kmの地点でドイツ軍に包囲されてしまい、第442部隊は司令部から救出を指令されます。これが第442連隊の名を不動のものにした「失われた大隊」の救出出動となりました。
26日から救出作戦を進めた第442連隊は、森林地帯での前進は困難を極め、「失われた大隊」の所にたどり着くまでに兵力が半減するほどの損害を受けてしまいます。15日のボージュ山脈到着以来、連隊の損害総数は戦死行方不明約200人、負傷約1150人に上っていたのです。救出作戦でも211人を救出するために、第442連隊は死傷者800名を出したのです。この「失われた大隊」救出作戦は、国防総省によってアメリカ陸軍史上十大戦闘の一つに指定されています。多くの犠牲が出ることが分かりきっている作戦に、第442連隊だけを就かせたという後ろめたさがあったのかもしれません。
この後、第442連隊は11月に第36師団の指揮を離れ、ニース近郊での警備任務に就き、戦力回復に努めてから、1945年3月に再びイタリア戦線へ派遣されます。このとき、連隊付きの第522野戦砲兵大隊は第442部隊から切り離され、第7軍を援助して、中部フランスとドイツの間のジークフリート要塞戦線に送られることになります。この第522野戦砲兵大隊はドイツのミュンヘン郊外にあるダッハウ・ユダヤ人強制収容所のユダヤ人解放に貢献しています。
第442連隊は4月5日から6日にかけて、イタリアのナチ軍を山側から急襲、ナチ・ゴシック要塞戦線を1日で突破します。この戦闘ではカリフォルニア出身のサダオ・ムネモリ二等兵が、ドイツ兵が投げた手榴弾から2人の戦友の命を救うために、その手榴弾を体で覆ったことにより爆死しました。これによって、彼は日系アメリカ人で唯一、戦闘員として受ける最高の栄誉である議会名誉勲章を受章することになります。しかし、このことは逆に、第100大隊を含む第442連隊が米軍の中でも際立った活躍をしたにもかかわらず、それにふさわしい十分な褒章を受けてこなかったことを証明しています。授与された勲章の数は多かったのですが、最高の議会名誉勲章の受賞者がただ一人というのは、あまりにも少なすぎると言わざるをえないのです。
ムネモリが爆死したそのころ、ソ連軍が既にベルリンに迫りつつあり、総統のヒットラーは4月30日には自殺してしまうのです。因みに、東洋人、特に日本人を毛嫌いしてきたルーズベルト大統領は、ヒットラーに先立つ4月12日に病死しています。
ヨーロッパ戦線における日系二世部隊の活躍に絞って記述してきましたが、そのほかにも、太平洋戦線では日系人たちが連合軍に大きな貢献をしていました。日本語の訓練のためにサンフランシスコに設立されたアメリカ陸軍情報部語学学校の卒業生の85%が日系二世で占められ、彼らは太平洋戦線で翻訳、通訳、尋問の担当者として、活躍しています。また、日系二世の女性たち約300人が陸軍婦人部隊に志願して、アメリカ各地の基地で任務に就いていました。
次回は日系二世部隊のアメリカ帰還と戦後のハワイ移民の状況をお伝えします。 |