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アストン・ワイキキ・サンセット
パオアカラニに秘められたハワイ最後の女王の地
その昔、ハワイの島々にはそれぞれ王がいて、それぞれの島を統治していました。18世紀の終わりのことです。この頃からハワイは外に開かれた国となり、アメリカを初め、さまざまな国がハワイと交流を始めました。
後にその第8代目となったのが、先代のカラカウア王の妹であるリリウオカラニでした。彼女は1838年9月2日にリディア・リリウ・カマカエハ・カオラニアイイ・ネヴェヴェイイとして、ホノルルに生まれました。
1862年(24歳)、リリウはアメリカ人の船長の息子、ジョン・ドミニスと結婚し、義母の家があったワシントン・プレイスに移り住みました。ちなみに、この邸宅は現在も州知事公邸として使われています。未来の女王リリウに対し、夫であるジョンは政治的な助言を与えたと言われています。
1872年12月11日にカメハメハ5世の死とともにカメハメハ一世の直系が途絶えてしまいました。そこで初の選挙が実施され、ルナリロ王子が選ばれました。その1年2ヵ月後にはカラカウア王が選挙により即位しました。王家の血筋をひくものは、みな若くして亡くなったのでした。
1877年、リリウは王位の相続権が与えられ、カラカウア王より"プリンセス・リリウオカラニ"という名前を与えられました。リリウオカラニは王朝での役割とは別に、芸術家としての一面も持っていました。彼女は生涯に200曲以上もの音楽を作曲しています。有名な"アロハ・オエ"も彼女の作品です。
1881年、カラカウア王が世界を外遊する際、彼女は王国の責任者として摂政に任命されました。カラカウア王の在位中、ハワイはアメリカと結んだ互恵条約の結果、経済的には潤いましたが、このころから外国からの影響が強まります。
1891年1月20日、突然、サンフランシスコでカラカウア王が亡くなりました。すると、その9日後にはリリウオカラニが女王として即位します。またまた慌ただしいですよね。彼女はカラカウア王時代に失った王権の回復をいろいろ試みたのですが、ついにその2年後、白人のクーデターが起きてしまいました。ハワイ王朝は崩壊して、女王はイオラニ宮殿に幽閉されてしまったんです。結局、彼女は王権を放棄して、新生のハワイ共和国に忠誠を誓わされました。そして一市民となってしまいました。
その後、表向きは"ドミニス夫人"と呼ばれていたリリウオカラニでしたが、1917年11月11日に亡くなるまでずっと、"最愛の女王"としてハワイの人々に慕われていたんですよ。
さて…、王家には「パオアカラニ」という香水があるのですが、これはワイキキにあったリリウオカラニ女王の夏の別荘の名称なのです。知ってました? わがワイキキ・サンセットは、その女王の土地の一部に、建てられているんですよ。そうそう、ロビーではリリウオカラニ女王にまつわる展示物が見られます。興味がわいたらちょっと見てくださいね。
アストン・ワイキキ・サンセットから徒歩7〜8分のところに、リリウオカラニ女王の邸宅跡の碑が立っていますので、散歩がてらご覧になったらいいかもしれません。
アストン・ワイキキ・サンセットのロビーを出てパオアカラニ通りを右手に進むと、アラ・ワイ運河に平行するアラ・ワイ通りに出ますので、右に曲がりダイヤモンド・ヘッド方面に進むと、運河のほとりに碑があります。この周辺は横断歩道が少ないので、車にはご注意下さい。 |
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