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本の世界(3) イザベラ・バード
近藤純夫

イザベラ・バード
 イザベラ・バード(*1)は1831年イギリスのヨークシャー州に生まれました。男の子に恵まれなかった父親は彼女を長男のように育てたといいます。二十歳を過ぎたころ、イザベラは恋をしますが叶わず、失恋の傷を癒すため、親戚とともにカナダやアメリカを旅行しました。帰国後、彼女はそれらの経緯をアメリカ旅行記にして出版しました。イザベラはその後も旅をつづけ、1873年にはハワイ(*2)に半年間滞在します。このときの体験をまとめたのが『サンドイッチ諸島での六ヶ月』です。
著書『サンドイッチ諸島の六ヶ月』
 その後、日本、朝鮮、チベットなどのアジア諸国をはじめ、中近東、北アフリカなど、当時は秘境と言われた世界の国々の辺境地帯を旅して紀行文を発表しました。彼女の行動は世間から大きく注目されただけでなく、女性の社会的地位の向上にも大きな影響を与えました。

 *1 Isabella Lucy Bird Bishop
 *2 当時はサンドイッチ諸島と呼ばれた。

 イザベラが世界の辺境を旅することができたのは馬があったからです。彼女は幼少のときから父とともに馬にゆられ、物心がついてからは自ら馬に乗って牧師であった父の仕事のお供をしていました。その体験が後年、馬を使った各国での旅につながっていったのです。
 作家としては、アメリカから帰国した際に旅行作家のジョン・ミルフォードと、出版人でイザベラの後見人的役割をも担っていたジョン・マレイと出会ったのが幸運でした。その後、彼女は次々と彼のもとで本を出版していったのです。

ルナリロ

 彼女がサンドイッチ諸島へ到着した1873年という年は、ルナリロがカメハメハ五世の後を継いで第六代の王となった年です。わずか1年で彼が世を去ったため、翌年にはカラカウアが第七代の王に即位しています。先に紹介したマーク・トゥエインの来島から7年、スティーブンソンがやって来たのは、彼女がサンドイッチ諸島を去ってから16年後、ハワイが合衆国に併合されたのは、その9年後のことです。キャプテン・クックが欧米人として初めてハワイを見つけてから、ようやく1世紀になろうとしていた時代でもありました。

 イザベラがハワイへやってきたとき、ホノルルはすでに列強の軍艦と欧米人で大変なにぎわいとなっていました。このときすでに、現在も航行しているような船による島巡りツアーが催行されていて、当時はキラウエアという名の蒸気船が就航していました。いまは博物館かレジャー用途にしか見かけないカヌーも、ハワイ諸島では日常的に使用されていました。


ヒロ(1875年)。右奥がヒロ湾。手前左の白い建物はアメリカ領事館

 彼女がもっともインパクトを受けたのは、ハワイの住人たちがみなにこやかな顔をしていたことです。当時、イギリスは産業革命のまっただ中で、労働条件や生活環境が劣悪だったせいか、人々にあまり笑みは見られませんでした。これはアメリカにおいても同じでした。しかし、イザベラが目にしたのは天国のような人々だったのです。
 すっかりハワイが気に入った彼女は、半年以上もこの地に滞在し、見聞きするものを詳しく書き留めました。そのひとつにホテルに言及したものがあります。当時のホテルは鍵をかけるという習慣がなく、窓にはカーテンもないが、それで問題になることはなかったということです。また、色とりどりの食べものが並んだ食卓や、従業員たちのホスピタリティーについても称賛しています。ハワイは文字通り彼女にとっての理想郷でした。


颯爽と馬を操る地元の女性

 ホノルルにしばらく滞在したあと、イザベラはキラウエア号に乗船してヒロへ行き、そこからキラウエア火山を見学に行きました。このとき彼女は、後の探検行に大きな影響を及ぼす決断をします。当時、欧州の女性は乗馬のときに横座り(両方の脚を馬の一方に揃えること)をして乗っていました。跨るのははしたないことと思われていたのです。しかし、ハワイへ到着したとき、女性がさっそうと馬に跨る姿を見たことと、土地の人間の強い薦めもあり、男と同じ乗り方に挑戦しました。そして、これまで苦痛でしかなかった乗馬が信じられないほど楽であることに気づいたのです。この一件が、後の彼女の探検行により大きな可能性を与えたのでした。


キラウエアクレーターからみたマウナロアのスカイライン

 このときのハイライトはハレマウマウ・クレーターです。奇妙なことに、イザベラもマーク・トゥエインと同じく、当初は想像していたような噴火の迫力を感じず、キラウエアの訪問に失望を感じています。当時の観光とは、額面通りの印象を受けることができるかどうかが重要だったのかもしれません。人間は自然を支配し、それを評価する権利があるという考えしかなかったこの時代は、今日のような自然とのコミュニケーションなど、求めるすべはなかったのかもしれません。
 キラウエア・クレーターの淵に下りてハレマウマウ・クレーターに近づいた彼女は、10m以上もの高さで溶岩が噴き出し、いたるところに真っ赤な溶岩の池が出現している様子に大きな感銘を受けました。「永遠に燃え続ける炎を宿した底なしの穴と、炎と硫黄の湖」と、彼女はその様子を表現しています。

 しばらくハワイ島に滞在したあと、彼女はホノルルに戻りますが、大自然を満喫した後の町の空気は彼女の性に合わず、その後カウアイ島、マウイ島、ラナイ島と、島々を探索しました。その後、再びハワイ島へ戻った彼女は知人の男性とマウナ・ロアに登ったり、クックが殺害されたケアラケクア湾を訪れたりしています。
 イザベラ・バードは、自分が平穏な日々より、冒険のようなチャレンジをする生活の方が性に合っていると思いました。ハワイはとても彼女の気に入りましたが、新しい刺激を求め、やがてロッキー山脈の踏破行へと旅立ったのでした。

  次回はペトログリフについてお話しします。

>> 過去の特集は、こちらでご覧いただけます。


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