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ラ・ペルーズ
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ハワイは太平洋に孤立した島のように見えますが、ハワイ人自身がサモアからマルケサスやタヒチを経てこの島に到達したように、太平洋諸島は文化的に密接なつながりのあるところです。そこで、何人かの太平洋探検家を通じて、18世紀末から19世紀初頭にかけ、ハワイがどのように西欧文明と接触したかを見ていくことにします。
ラ・ペルーズ(*1)は1741年に南西フランスのアルビ近郊で生まれ、15歳で海軍に入りました。ジェイムズ・クックに較べると、ハワイとの関わりはそれほど深くありませんが、1日だけ停泊したマウイ島では多くの島民と交流しました。
*1 正しくはジャン・フランソワ・ドゥ・ギャロー・コント・ドゥ・ラ・ペルーズ
(Jean
François de Galaup, comte de La Pérouse)
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マウイ島に寄港した2隻のフランス船 |
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大成功を収めたクックの第1回航海(1768年〜71年)はフランスでは衝撃的に受け止められ、翌年の72年にはその報告書がフランス語で翻訳出版されました。フランス国王ルイ16世もこの事実に刺激を受け、フランス人による探検航海を提唱します。しかしさまざまな問題が生じて計画は何度も順延し、ようやく1785年になって、ラ・ペルーズをキャプテンにした探検航海が実現しました。(*2) 国王は西フランスのブレスト港から、「ラ・ブソル」号と「ラ・アストロラーブ」号(*3)という軍艦2隻を太平洋探検航海に送り出します。この航海はフランス国家の威信がかかったものでした。船には、画家をはじめ、鉱物、物理、天文、博物、植物、気象など多くの学者が乗りこみました。
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『ラ・ペルーズの謎』と題された研究書 |
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*2 ラ・ペルーズはこれに先立つ1778年に、キャプテン・クックが発見したニューカレドニアの調査を行っています。
*3 帆船のフリゲート艦で、「ブソル」はコンパス、「アストロラーブ」は天体観測儀の意味。ラ・ペルーズが乗船したのはブソル号で、アストロラーブ号は、ラ・ペルーズの友人であるラングルが指揮を取りました。
船は大西洋を南下して南アメリカの南端にあるホーン岬を回りこみ、再び北上してイースター島に寄港します。1786年4月のことです。その後に寄港したのがサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)のマウイ島でした。その後アラスカまで北上し、そこから南下してサンフランシスコとモンテレーに寄港します。次に進路を西に取り、北西ハワイ諸島のネッカー島を発見したあと、マリアナ諸島のアスンシオン島を経由してマカオに到ります。1787年1月のことでした。ここからマニラへ南下したあと、台湾を経由して再び北上します。中国東北地方と樺太(サハリン)を経て間宮海峡を抜け、宗谷海峡を通過してカムチャツカ半島の先端に達します。ちなみにこのときの記録により、西欧では現在でも宗谷海峡をラ・ペルーズ海峡と呼びます。
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『世界周航記』の表紙
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船はそこからまっすぐ南下してナビゲーターズ諸島(サモア諸島)に到ります。彼らは同諸島のツツイラ島で原住民による襲撃を受け、多くの死傷者を出しました。その後、フレンドリー諸島(トンガ諸島)を経てオーストラリアのボタニー湾に入港します。1788年1月のことでした。同年の3月にシドニーを出港しますが、その後、消息を絶ちました。数十年後、世界一周航海を達成したルイ・A・ブーガンビルの息子がボタニー湾の岬にラ・ペルーズ記念碑を建立しています。
一行が消息を絶ってから約40年後の1826年、イギリス海軍のピーター・ディロン船長がサンタ・クルーズ諸島のバニコロ島でラ・ペルーズたちの遺品の一部を発見、その翌年に再調査した結果、船員の一部は殺害され、残った者たちはボートを作って脱出したものの、行方不明となったという結論を得ます。さらに1828年、フランスの探検家デュモン・デュルビルが船体の一部を発見し、乗員約30名が殺害されたという印象を得ました。しかし、ラ・ペルーズの最後については何も判明しませんでした。(*4) 1797年には、ラ・ペルーズが、カムチャツカ半島のペトロパブロフスクから本国に送った航海日誌などを編纂した『世界周航記』がパリで出版されています。
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『世界周航記』の中扉 |
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*4 東京オリンピックが開催された1964年に多くの遺品が発見されています。
マウイ島のカフルイ空港から南下し、キヘイ、ワイレア、マケナを通過し、ハレアカラの溶岩地帯を過ぎてカナヘナを通過すると車止めに突きあたります。そこから右手の海岸線に広がるのが、かつて船団が寄港したラ・ペルーズ湾です。今日ではサンゴ礁に生息するさまざまな魚のほうが有名ですが、海岸には散策道が設けられていますので、往事を偲んで歩いてみるのもいいでしょう。
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