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大航海時代の探検家たち(2)クルーゼンシュテルン
近藤純夫
I.F.クルーゼンシュテルン

 ラ・ペルーズの航海から20年近く経ったロシアで、最初の大航海が計画されました。植民地拡張政策の時代にロシアが名乗りを上げたのです。当時、ロシアはすでに大国の仲間入りを果たしていましたが、海軍力はかなり見劣りしていました。1803年7月、クルーゼンシュテルン(*1)は対日使節でもあったレザノフ(*2)とともに、現在のサンクト・ペテルスブルク近郊にある要塞都市クロンシュタットから、ナジェジダ号とネヴァ号を率いて出航しました。彼らの目的は、皇帝アレクサンドル1世の命によって太平洋の航路を切り開くことでした。この頃ハワイでは、カメハメハ1世による全島支配の戦いが行われていました。

。*1 イワン・フョードロビッチ・クルーゼンシュテルン(1770-1846)は、ドイツ系ロシア人として現在のエストニア共和国で生まれました。
*2 クルーゼンシュテルンとレザノフの仲はあまり良くなかったと伝えられていますが、その詳細は他に譲ります。

 当時の大航海では、軍人や政治家とともに多くの学者が同乗しました。博物学者のティレシウス・フォン・ティレナウやゲオルグ・ハインリッヒ・フォン・ラングスドルフ、医者であり植物学者でもあったブリンケン、画家のエティエンヌ・クルラントゾフなど、多くの学者が未知の自然や文化の解明を目指したのです。一行には、仙台出身の漂流民でロシア船に救われた津太夫たち(*3)も乗船していました。

*3 ロシア船に救われた後に波乱の半生を送った大黒屋光太夫ほどには知られていませんが、日本人として最初に世界一周をした津太夫もまた歴史に名を残した人物です。

 2隻の船は同年10月にカナリア諸島のテネリフェに寄港し、翌月、ブラジルに着きます。そして、リオ・デ・ジャネイロ近郊のサンタ・カリーナ島で、ネヴァ号の修理で1ヶ月半ほど滞在します。この時間を利用し、学者たちは海洋生物の調査を行い、クラゲなど、いくつかの新種を発見しました。

サンクト・ペテルスブルク市内に建つ銅像

 翌年2月にナジェジダ号でブラジルを出航したクルーゼンシュテルンは、ホーン岬でネヴァ号を見失ってしまいます。その3ヶ月後の1804年5月、ナジェジダ号はマルケサス諸島のヌク・ヒバに到着。ここでロバーツというイギリス人に出会います。彼は3年前の紛争でこの島に置き去りにされたあと、島の首長の身内と結婚して暮らしていました。同じような境遇にあったフランス人ジョゼフとは仲が悪く、一説には、ジョゼフが島の案内役を務めたとも言います。クルーゼンシュテルン一行はいずれかの案内で原住民との物々交換や島の自然の観察、聖地の確認など、多くの収穫をあげるました。なかでも、マルケサスバトという新種のハトの発見は大きな成果でした。

 5月になるとネヴァ号もヌク・ヒバに到着し、その後2隻でサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)に向かいます。出航前夜、ロバーツとジョゼフは船に招かれ酒席を伴にしますが、深夜にロバーツは泳いで島に戻ります。一方、熟睡してしまったジョゼフは、目覚めたときに船が外洋に出たことに驚かされます。ここにロバーツの陰謀が働いていたのかもしれません。翌月、一行はオアフ島に到着。ジョゼフは、当時マルケサス諸島とサンドイッチ諸島を結ぶ定期航路で戻ることを勧められますが、結局、一行と伴にロシアまで行くことになりました。クルーゼンシュテルンはこの地で遠征隊を解散しました。

航海で作成した日本地図

 ネヴァ号はしばらくサンドウィッチ諸島に留まってからアラスカのコディアク島へ行きます。途中クルーの一員であったリジアンスキーが北西ハワイ諸島で島を発見し、彼の名を冠しました。その後、クルーゼンシュテルンのナジェジダ号は艦の修理と物資補給のためにカムチャツカへ向かいました。7月、ナジェジダ号はカムチャツカのアヴァカ湾のペトロパブロフスクに到着。学者たちはここで下船します。

 翌8月、ナジェジダ号はペトロパブロフスクを出航して長崎へ向かいます。10月に長崎に入港し、ここで津太夫をはじめとする漂流民の護送を行なおうと幕府と通商交渉をします。しかし、半年近く待たされたすえ、結局交渉は拒絶されてしまいました。この待機時間を使い、彼は対馬海峡を経由して日本海を北上し、北海道に上陸しました。ちなみに、日本海の呼称に関する最初の国際的な定義はこのときクルーゼンシュテルンが行ったものです。一行は宗谷湾に寄港してアイヌ人と交渉もしています。その後、日本人との紛争が相次ぎ、レザノフの勧めもあってカムチャツカへ帰還することにします。

レザノフが著した日本滞在日記

 1805年6月、ナジェジダ号は再びペトロパブロフスクに入港し、レザノフはここで下船します。翌7月、サハリン近海の探検に出航したクルーゼンシュテルンは、千島列島を経てサハリン北端まで行きます。しかし次第に水深が浅くなったために探検を断念し、同年8月にペトロパブロフスクに戻りました。その後、中国の調査を行ない、1806年8月にクロンシュタットに帰還します。

 探検後、クルーゼンシュテルンは『クルーゼンシュテルン周航図録』という航海録を出します。博物部門の挿絵と、その詳細さはいまも稀覯本として高く評価されています。このなかには、日本のイシダイやツボダイも紹介されています。

 1815年に再び航海に出てベーリング海峡を探査し、その10年後に『太平洋の地図』を出版します。その後は、海軍兵学校の校長や海軍大将を歴任し、やがて彼はロシア海軍の父と呼ばれるようになりました。その名を冠した軍艦はよく知られていますし、今日ではロシアの海洋調査船に彼の名が付せられています。

次回は、アヒやマヒマヒなど、ハワイの食卓になじみの魚についてお話しします。
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