クックの偶然
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船に集まる無数のカヌー |
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1779年1月、クックはハワイ島のケアラケクア湾に入港しました。このとき、住人たちはマカヒキの祀りを行っていました。ハワイには作物の豊饒を約束する神であるロノがいます。ロノは妻の美しさに疑心を抱き、嫉妬のあまりに彼女を殺害してしまいますが、それを悔いたロノはマカヒキの祀りを執り行ったあと、カヒキ(*1)へ向けて旅立ちます。そのとき彼は人々に対し、自分は食糧を満載した船で戻ってくると約束したのでした。ロノの船は十字に組まれた木が船上に据えられ、白い布がぶらさがっていると考えられていました。
*1 カヒキとはタヒチのことですが、ここでは「異国」といった意味です。
クックの帆船はまさにそのような形でした。しかもマカヒキ祭の儀式と同じように、時計回りで島をほぼ1周してから入港したのです。住人たちは騒然としました。クックたちはロノ神そのものに違いないと考えたのです。
ここまでは歴史の教科書どおりですが、前回お話した事実を考え合わせると小さな疑問が生じます。クック一行はカウアイ島でカラニ・オープウと会っていますが、このとき大首長はクックを神としては扱っていません。マウイ遠征から戻り、恐らくはハワイ島を司るカフナ・ヌイ(大司祭)からの報告を受けたあとで、彼は初めてクックをロノと呼んだのです。カラニ・オープウにはなんらかの考えがあって、クックに対する呼び名を変えたと考えるべきかもしれません。
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クックが停泊したケアラケクア湾の様子
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それはさておき、ケアラケクア湾に上陸したクックは、カフナのひとりに案内され、ヘイアウ(祭壇)へ行きます。ヘイアウでは最初にクーという神に祈りを捧げることを求められ、クックは地にひれ伏します。ロノも神であるはずなのに、なぜ別の神に対してひれ伏すのか? それには次のような事情があります。ハワイには四大神と呼ばれる、カーネ、カナロア、クー、ロノがいます(*2)。この四大神はポリネシアの島々とハワイ諸島では少し立場が異なります。ハワイ諸島、なかでもハワイ島ではクーの地位が相対的に高く、次いでロノが重要でした。
*2 バックナンバーにある「神々の物語」(1)〜(3)に詳細があります。
クックはロノ神として熱烈な歓待を受けましたが、西欧人の価値観から見るならかなり奇妙なものにみえたことでしょう。彼は半ば腐りかけた豚を差し出されたり、噛みくだいてから吐き出したカヴァの樹液を体に塗られたり、あるいは飲み物として差し出されたりしました。しかし、それらの儀式はハワイの住人にとっては最高の待遇でした。
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クックたちに怒りを向けるアリイたち |
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翌月、土地の人々に祝福されながら一行はケアラケクア湾を出ましたが、直後の嵐で船が破損します。長期に渡る滞在で次第に乗員と住人たちとの関係がぎくしゃくしていたこともあり、クックは島に戻ることをためらいます。しかし、次の寄港予定地であるカウアイ島のワイメアまで船が持たないかもしれないことを考えると、引き返すより他に手段はありませんでした。
予想どおり、住人たちは掌を返したように冷たい態度で彼らを迎えました。初めの寄港のときから起きていた盗難がまたしても起こり、次第に両者は敵対していくようになります。ついには船にとっては重要な大型ボートを盗まれるにいたってクックの堪忍袋の緒が切れました。彼はボートが戻ってくるまでカラニ・オープウを自船に拘留しようと彼の住みかに向かったのです。
湾まで来たカラニオープウは、そこで妻や家臣から船に乗るのを止められます。次第に不穏な状況になり、多くの住人が手に武器を持って集まってきます。そのとき、洋上の別のボートから船員のひとりがハワイ人を撃ち殺してしまいます。それがアリイ(首長)のひとりだったため、住人たちはクックたちに向かって一斉に襲いかかりました。クックは最初こそなんとか制止しようとするのですが、これまでと悟ると、近くにいた部下のボートに接岸するよう命じます。しかし、ボートは逆に沖合に出てしまいました。クックは泳げなかったので、岸に立ち往生となりますが、そのとき彼はハワイ人のひとりにナイフで刺し殺されてしまいます。皮肉にもそのナイフは彼が友好の記しとして彼らに贈ったものでした。
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クックの最後 |
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ナイフを振り下ろしたハワイ人は最初、クックがすぐに起き上がるものと思い、及び腰に様子をうかがっていました。彼はクックが本当に神であると信じていたかのようでした。しかし、いつまでも動かぬのを見て、彼や周囲の人間は一斉に自分たちの武器や石を振り下ろしました。クックの体はボロボロに引き裂かれてしまったのです。
クックの最期については諸説あります。報告をした部下が自分の責任を回避するために、いくつかの脚色をしている可能性があるからです。報告はさまざまな形で行われましたが、後年、クックの死に責任を持たない下級の乗員が、上官とは異なった証言をしています。前述したのは、それらを加味したクックの死の推測です。
さて、なぜ神であるクックは殺されなければならなかったのでしょうか。直接のきっかけはロノ神に対する失望でしょうが、ハワイ人にとっての神は、西欧的思考の神とは少し異なった位置づけにありました。強大なマナ(霊的な力)を持つ首長やカフナは、神々と互角の力を持つという言い伝えです。実際、毎年のマカヒキ祭の最後のセレモニーは、島を一周した旗(ロノにみたてた旗)はカヌーで沖合に出るのですが、再び戻ってきて、今度は王と戦う儀式を行ったのです。皮肉にもクックはそれと同じパターンを取ってしまいました。カラニ・オープウは最後までクックに対して友好的に振る舞いましたが、住人たちはハワイの伝統的儀式に忠実だったのかもしれません。
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クックの碑 |
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住人たちは彼らの慣習にのっとってクックの死体から肉を削ぎ落とし、骨だけを保存しました。その後、指揮官となったチャールズ・クラークは遺体の返還を要求しますが、戻ってきたのは一部にすぎませんでした。ケアラケクア湾の突端近くにはいまもクックを記念する小さな碑が建っています。背後は急峻な崖と森に囲まれ、海か、あるいはいまはあまり通る者のないトレイルを通じてしかそこへ行き着く手だてはありません。
レゾリューション号とディスカバリー号は、その後、オアフ島、カウアイ島、ニイハウ島を経てハワイ諸島を後にしました。その後ハワイ諸島はカメハメハ大王によって統一されます。しかし、クックの事件は、そのときに留まることなく、後のハワイの運命に大きく関わることになるのです。
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