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船上のナイノア・トンプソン(A) |
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数千キロメートルも離れたハワイから、ホクレアという名のカヌーが来日します。それはいったいどのようなカヌーなのか、そして日本とはどのようなつながりがあるのかをお話しします。
ポリネシア人のアイデンティティとしてのカヌー
ポリネシア人の誕生の経緯については「ポリネシア人の誕生」(*1)で紹介しました。また、どのようにしてハワイ諸島を発見し、そこに住みついたかについては「歴史の謎に迫る」(*2)でお話しました。それらの話から分かることは、ポリネシア人が生粋の海洋民族であり、長距離航海の技術と伝統が数千年に渡って培われてきたこと、さらには、彼らの体格そのものが、長距離航海に耐えるように進化したということです。
*1: 「ポリネシア人の誕生(1)」
「ポリネシア人の誕生(2)」
*2: 「歴史の謎に迫る(1)」 「歴史の謎に迫る(2)」
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カヴァイハエ湾を出航するホクレア(右)とアリンガノ・マイス(左)(B) |
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ハワイにはハヴァイイ・ロア(あるいは、ケ・コヴァ・イ・ハヴァイイ)の伝説があります。ハヴァイイ・ロアはカヌーに乗り、カ・アーイナ・カイ・メレメレ・ア・カーネ(カーネという神の住みたもう美しい海、あるいは、黄色の島)と呼ばれる国から、マカリイという名の航海士とともにハワイへやって来たと言われます。このことからもわかるように、ハワイの伝統文化はカヌーによる長距離航海ぬきには語れないのです。
とはいうものの、肝腎の航海がいつ、どのように行われたかについては謎でした。1974年にアメリカ合衆国建国200周年記念事業の一環として外洋カヌーの建造が決まりました。70年代という時代は、ハワイの伝統文化を復興させようという大きな動き(ハワイアン・ルネッサンス)が起きた時代でもあります。彼らは実験航海を行って、タヒチやマルケサスから人々がどのようにハワイ諸島にたどり着いたかを検証しようとしたのです。航海を通じてハワイ人として、またポリネシア人としてのアイデンティティを確認するという大きな目的もありました。
カヌーの建造にあたって中心的な役割を果たしたのは、1973年に設立されたポリネシア航海協会(Polynesian
Voyaging Society)です。立ち上げに尽力したのは考古学者のベン・フィニーをはじめ、名カヌーイストとして知られたトミー・ホームズ、厳密な時代背景を反映させた歴史画で知られる画家のハーブ・カネなどでした。復元するカヌーにはかつてと同じ材を使う予定でしたが、全長20mを越える太くて真っ直ぐな巨木はハワイにはなく、結局船体はグラスファイバーで作られました。しかし、形状的には古代のカヌーを可能な限り再現しました。
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祈りを捧げるナイノア・トンプソンらクルー達(C) |
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1975年3月8日、完成したカヌーにホクレアという名前がつけられました。このハワイ語はアルクトゥルスという、うしかい座の恒星を意味しますが、アルクトゥルスには「幸せの星」という意味があります。ハワイの人々を含め、広くポリネシアに残る共通の文化を表すシンボル的な意味合いが含まれているのかもしれません。
残念なことに、ハワイはおろかポリネシアのどの島でも長距離航海術は廃れ、伝統技術を持つ者はいませんでした。そこで関係者たちはミクロネシアのカロリン諸島にあるサタワル島で航海術を受け継ぐマウ・ピアイルック(ピアイルグ)という航海士に指導を仰ぎました。
翌1976年5月1日、マウ・ピアイルックや、協会の設立者で考古学者のベン・フィニーなど、総勢15名が乗り込み、タヒチへの4000kmに渡る航海をはじめました。ピアイルックは星や海流、雲などを読み取り、カヌーを的確に南へと向けました。そして33日後、ホクレアはついにタヒチにたどり着き、航海は成功を収めました。この成功はハワイ人だけでなく、ポリネシアの人々すべてにとっても歴史的な快挙でした。残念だったのは、航海中の人間関係の軋轢に嫌気がさしたピアイルックが帰路の航海を拒んでカヌーを降りたことです。ピアイルックはそのままサタワル島に帰ってしまいましたが、後に中心的な役割を果たすナイノア・トンプソンが彼を追って島へ行き、航海の基本を学びました。
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曳航されパラオに入港するホクレア(D) |
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1978年に再びタヒチへの航海が行われますが、カヌーは出発直後に嵐にあって沈没し、このとき小さなサーフボードで救助を求めにいったクルーのひとりエディー・アイカウは嵐のなかで行方不明となりました。この哀しみを乗り越え、その2年後、クルーたちは初めて伝統航法によるタヒチへの往復を成功させました。
1979年、ビショップ博物館の篠遠博士はソサイエティ諸島のフアヒネ島で全長25mにもなるカヌーを発掘しました。この発見は、ホクレア号の建造など、その後のポリネシア航海協会の活動に大きな示唆を与えました。なにしろ、それまでだれも古代カヌーの実物を見たことがなかったのです。この発見は世界の人類学者たちをも驚かせました。ちなみに篠遠氏はポリネシア航海協会の顧問でもあります。
1989年にはビショップ博物館が協賛し、ハヴァイイ・ロア・プロジェクトが立ち上がりました。2艇目となるハヴァイイ・ロアの建造が開始されたのです。これまで以上に伝統に忠実であろうと、船体は木製で帆はラウハラという伝統的な織物を使用することになりました。しかし、ハワイには全長が20mに近いカヌーを作ることができるような巨樹はありません。計画は頓挫しそうになりましたが、アラスカ州のトリンギット・インディアン(*3)が巨木を寄贈してくれたため、プロジェクトは実現しました。
*3: トリンギット族はアメリカ州の先住民族のひとつ。クリンキット、クリンギットとも呼ばれるが、かつてはフリンキットと呼ばれた。
1995年に完成したハヴァイイ・ロアはトリンギット族に感謝の意を表するため、合衆国本土に向けて旅立ちました。同年、3艇目となるマカリイが完成します。このカヌーはマウ・ピアイルックとともにサタワル島まで航海をしました。
そして、2007年、恩師であるマウ・ピアイルックの住むサタワル島でアリンガノ・マイス(Alingano
Maisu)という名のカヌー(※Na Kalai Waʻa Moku o Hawaiʻiという組織による建造)を贈呈したあと、ホクレアはヤップ島から沖縄までさらに2000kmを航海し、その後、熊本、長崎、福岡、大島町(山口県)、広島、宇和島、横浜を訪れる予定です。あまり知られていませんが、サタワル島から日本にカヌーが来るのは今回が初めてではありません。1975年に海洋博が開催されたとき、チェチェメニという名のカヌーが伝統航法で2000km以上を航海し、沖縄を訪れています。
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出発式前夜のホクレア(E) |
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大都市に混じって小さな大島町が含まれていますが、この町は日本人移民をもっとも多く輩出した土地です。ホクレアの中心メンバーのひとりであるナイノア・トンプソンは、幼いときに不在がちの両親に代わって近所の日系人に世話をしてもらいました。ナイノアは故人となったその人物の故郷を聞き逃しましたが、ハワイの日系移民に敬意を表し、最多の移民を排出した大島町を表敬訪問することにしたのです。
ホクレアはハワイ人の精神的支柱としてこれからも世界の海を航海し続けることでしょう。南アジアに誕生した海洋民族がいかにして広く太平洋一帯に住みついたかの答えがこのカヌーにはあるのです。
次回はタヒチについてお話します。
表紙の画像は、ダイヤモンドヘッドの沖合を航行するホクレアです。
写真提供: ハワイ州観光局(A., C., D., E.)、Polynesian Voyaging Society
(Photo by Michael F. O'Brien)(B)
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ホクレア号 |
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全長
約19m |
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全幅
約5.3m |
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ホクレア号30年間の主な航海 |
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1976 |
ハワイ
- タヒチ - ハワイ |
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1978 |
難破 |
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1980 |
ハワイ
- タヒチ - ハワイ |
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1985〜7
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ハワイ
- タヒチ - クック諸島 - アオテアロア(ニュージーランド) - トンガ
- サモア - クック諸島 - タヒチ - ハワイ |
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1992 |
ハワイ
- タヒチ - ラロトンガ(クック諸島) - ハワイ |
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1995 |
ハワイ
- タヒチ - マルケサス諸島 - ハワイ - シアトル - サンディエゴ
(※ハヴァイイ・ロアはシアトルでホクレアと別れ、アラスカ州ジュノーへ) |
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1999〜2000 |
ハワイ
- マルケサス諸島 - マンガレヴァ - ラパ・ヌイ - タヒチ - ハワイ |
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2003〜4
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ハワイ
北西ハワイ諸島 - ハワイ |
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事務局 |
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ホノルル、ハワイ・マリタイム・センター内 |
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