モロカイ島カマロのセント・ジョゼフ・チャーチ(聖ヨセフ教会)。1876年にダミアン神父によって建てられた |
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1840年1月3日、後にダミアンと名乗るジョゼフ・ドゥ・ヴーステルは、ベルギーのフランドル地方にあるトレムロ村で、七人兄弟の末っ子として生まれました。彼は、先に修道院に入っていた兄や姉の影響を受け、19歳のときに「イエズス・マリアの聖心会」の神学生となります。司祭になるとき、彼はダミアンという修道名を選びました。これはダミアノという聖人の名からとったものです。その後、彼はルーヴェン・カトリック大学で哲学と神学を学びました。
1863年のこと、当時、同じ修道会に所属していた兄が宣教師としてハワイ王国へ赴くことになっていましたが、病に伏したため、彼は兄の代理としてハワイへ行くことを求めました。同年の秋にドイツから船出したダミアンたち一行は、半年近くの航海を経て、翌年3月19日にホノルルに到着し、管区の教会に赴任しました。このときはまだ神学生でしたが、ダミアンは2ヶ月後の5月21日にホノルルの教会で司祭に任命されます。
ダミアン神父はハワイ各地を訪れ、布教をつづけましたが、ハンセン病患者の噂に心を痛め、気持ちはつねに彼らに向けられていました。彼がハワイ島のコハラに滞在していたとき、高位の司祭に手紙を書き、「多くの教区の民がハンセン病患者としてモロカイ島の隔離施設に送られています。わたしは彼らのところへ行くのが使命だと強く感じています」と訴えました。当時、ハワイは欧米人が持ちこんだ伝染病で人口が10分の1ほどにまで激減した上に、人口の2%程度がハンセン病に罹っていました。これらの患者たちはだれの世話も受けることなく、孤島に隔離されていたのです。
イザベラ・バードの『ハワイ紀行』にも描かれていますが、この当時、ハンセン病に罹った者は見つかるとモロカイ島の北岸に突き出た、カラウパパという陸の孤島に隔離され、生涯そこから出ることはできませんでした。しかも、しっかりとした治療も受けずに死んでいくしかなかったのです。そのため、情に厚いハワイ人たちの一部は感染した仲間や家族を追求の手から隠し、自ら感染することも恐れずに死ぬまで面倒を見たという例もかなりありました。当時の施設は名ばかりのもので、患者たちは社会的に隔離されただけでなく、人間としての尊厳も奪われた生活を余儀なくされていたのです。
1873年5月10日(*1)、当時33歳のダミアン神父はメグレ司教や船にあふれかえるハンセン病患者とともにモロカイ島に渡りました。この島のカラウパパにあった聖フィロメア教会に荷を解いたわずか2日後、彼は自分の一生をこの土地の患者たちに捧げることを決意するのです。最初に彼が取り組んだのは、ひどく荒んだ患者たちの暮らしを改善することでした。
*1: 5月9日という説もあります。
ダミアン神父は、着任早々、王国とかけ合い、施設の建設や医薬品を取り寄せました。神父はすべての患者にしかるべき建物と部屋が与えられるまで、教会脇のタコノキの下で寝たという話が残っています。彼は75年までの2年間に、モロカイ島に6つの教会を建て、少年少女ための施設を作り、死者のために棺と墓を作りました。その熱意と信念が他の島にも伝わり、彼はモロカイの英雄として注目されはじめます。これにつれて寄付などが集まり、カラウパパの生活環境は少しずつ改善されていきました。
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セント・ジョゼフ教会の近くにある聖母マリアカトリック教会 |
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しかし、彼と患者たちとの間には、目に見えぬ大きな壁が立ちはだかっていました。カラウパパの隔離施設のなかで、彼だけは健常者だったからです。ダミアン神父は後戻りのできない決断をします。感染の恐れのある患者たちと触れあうようにしたのです。
ダミアン神父の献身的な活動により、病院や住居という物質面だけでなく、文化活動など内面的な部分にまで大きな変革が起こりました。その結果、即位前のリリ・ウオカラニ王女をはじめ、先のイザベラ・バードなど、多くの著名人がこの地を訪れるようになりました。
1884年、ダミアン神父は脚に腫瘍ができたのに気づきますが痛みを感じませんでした。それはハンセン病の初期症状だったのです。彼は残り少ない命を考え、合衆国本土から何人かのシスターと、近しい仲だったジョゼフ・ダットンを招き、次代の体制つくりに取りかかりました。ダミアン神父がモロカイ島に着任してから16年後の1889年4月15日、彼は多くの司祭や患者たちに看取られ、安らかにこの世を去りました。享年49歳でした。
意外なことに、当初、彼の死は一般市民にあまり注目されませんでした。ダミアン神父を疎ましく思う司祭がいて、彼の人格を批判したからです。ダミアン神父を不名誉から救ったのは抗議文をマスコミに発表した作家のスティーブンソンでした。
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モロカイ島カウナカカイにある聖母マリアカトリック教会。1874年にダミアン神父によって建てられた |
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ダミアン神父の亡骸は教会脇のタコノキの下に埋められましたが、1936年に掘り返され、コアの木で作られた棺に入れられてベルギーに戻り、ルーヴェンの聖ヨセフ教会に祀られました(*2)。その後、1995年6月4日に、バチカンはローマ法王ヨハネ・パウロ二世の名により、ダミアン神父を聖人の環に加え、毎年5月10日を聖ダミアンの日としました。
*2: 彼の遺骨のうち、右手はカラウパパに戻され、再び同じタコノキの下に埋め戻されました。
その後
2005年の世論調査の結果、ダミアン神父は「ベルギー史における最も偉大なベルギー人」の名誉を受けました。今日、不治の病とされたハンセン病に対する彼の功績を称え、世界に点在するダミアン・センターはダミアン神父をエイズ患者救済のシンボルとしています。ちなみに、ハンセン病は1946年に治療法が確立しましたが、いまもカラウパパにはわずかながら患者が暮らしています。
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ハワイ州政庁舎前のダミアン像 |
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史蹟
ダミアン神父の銅像がモロカイ島の他、ハワイ州政庁舎や合衆国議会議事堂にあります。ホノルルにはダミアン博物館があります。
ダミアン博物館
住所: 130 Ohua Ave., Honolulu
電話: (808)923-2690
入場料: 無料
時間: 月曜〜金曜 9:00〜15:00(土・日 休館)
カラウパパは国立歴史公園として保存され、ガイドツアーが催行されています。
表紙は聖母マリアカトリック教会の外観です。次回はハワイの有害植物についてお話しします。 |