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マウイ島ワイルクにあるベイリー博物館のカヌー(レプリカ) |
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カヌーの仕組みだけでなく、航海術をも熟達させたポリネシア人たちは、マルケサス諸島付近に到達したあと、しばらくこの地域に停滞していたと思われます。なにしろ最初の集団移住があったとされるマルケサス諸島からは3,500km、最大の移動とされるタヒチからは4,400kmもハワイ諸島は離れていました。ではハワイ諸島はどのようにして発見されたのでしょう?
紀元500年〜600年当時、マルケサスより北に島の存在は知られていませんでした。しかし、もしかしたら存在するかもしれないとは考えていたようです。そう思った理由は渡り鳥の存在であった可能性があります。何もないはずの方角から時間的に長い間隔を空けて渡り鳥たちが飛来するのは、彼方にまだ見ぬ新天地があるからだと推測したのです。これらの渡り鳥たちはひどく疲労していました。このことから人々は、鳥たちはかなりの距離を移動してきた上に、休むことなく飛びつづけてきたと考えました。途中に羽を休める陸地がなかったということです。北のどこかにまだ見たことのない島がある。でもそれははるか彼方に違いないと考えたのでした。
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18世紀末の集落とカヌー(カウアイ島ワイメア) |
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この他にも、未知の島を証拠づけるものがあったことでしょう。たとえば自分たちの知らない植物が鳥の羽毛に付着していたり、知らない虫が紛れ込んでいたという可能性もあります。あるいは海流に乗って漂着した未知の植物があったかもしれません。それにしても、不確かな情報であることに変わりはありません。彼らはなぜわずかな情報だけで無謀とも思われる長距離航海を決意したのでしょう? たとえおおよその方角が分かったとしても、数千キロも離れた場所から正確に目的の島を見つけることなど、不可能に思えます。しかしポリネシア人たちはさまざまな障害を覚悟しつつも、小さなカヌーで旅に出る決意を固めたのでした。
長距離航海の背景
ポリネシアやミクロネシアの人たちは星を利用した天文航法に長けていました。周囲に目安となる島がなくても北極星や南十字星を利用して、カヌーが洋上のどこに位置するか、おおよその情報を収集できました。この技術に加え、海流や波、風の強さや風の吹く方向、気温などから、自分たちのカヌーが大海原のどの辺に位置するかを精確に捉えることができました。これらの技術を駆使し、彼らはハワイ諸島近くに到達したと考えられます。
とはいうものの、彼らが一度でハワイ諸島を発見できたわけではないでしょう。度重なる失敗と、それに伴う犠牲があった可能性はあります。マルケサスから最初のポリネシア人集団がハワイへ渡ったのは6世紀から7世紀の頃とされます。当時の彼らは木の枝や貝殻、石などを利用して海図のようなものを作り、これを利用していたことが知られています。この知識は今日でもミクロネシアの船乗りに受け継がれています。しかし、当時彼らが持っていた北の島々に関する情報はひどく不確かなものだったはずです。それにも関わらず、なぜ彼らは長距離航海を続けたのでしょうか?
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中距離までをカバーしたと思われるセール付きカヌー |
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ホノルルのハワイ・マリタイム・センターにはホクレア号という、全長19メートルほどのカヌーが係留されています。これはかつてポリネシア人が太平洋を航海したときに使っただろう双胴のカヌーを復元したものです。このように小さなカヌーで何千キロという距離を航海できるとは信じがたいですが、2007年には実際にこのカヌーは伝統航法のみで日本までやって来ました。すでに30年前にハワイ諸島からタヒチに至る4000kmもの伝統航海にも成功しているのです。ただし、このときは海の向こうに目的地があることを知っていました。そこが先人と現代人との、もっとも大きな違いであり、障壁だったことでしょう。
島を発見する
長い航海のすえにポリネシア人は鳥たちがやってきたと思われるあたりに行き着いたと思われます。ホクレア号最初の実験航海ではハワイからタヒチまで1ヶ月と少しでしたが、それと似たようなものだったでしょうか。彼らはどのようにしてハワイ諸島に接近していったのでしょう? もちろん正確にその場所を割り出すことは不可能だったはずです。新島探しの長距離航海では、およその距離と方角が分かっていたに過ぎません。おそらくは数百キロから千キロの範囲のどこかに島があるだろうという程度の精度だったのではないでしょうか。そこからは別の手段を講じる必要があったはずです。
そのひとつに、海流の変化を読みとるという方法があったと思われます。当時のハワイ諸島のうち、ハワイ島とマウイ島では活発な火山活動を続けていました。溶岩で熱せられたり、ミネラル分が増えた潮は異なる色の帯を海面に浮かべていたに違いありません。この帯は数百キロに渡って南や東に伸びていた可能性があります。カヌーの人たちはこれに気づいたのではないでしょうか? さらに接近すると、大気のなかにガスの臭いを感じたり、遠くに立ちのぼる噴煙を目撃することもできます。噴火が爆発性を帯びていた場合は音が聞こえたり火山灰が降ってくることも考えられます。また、渡り鳥だけではなく、島に定着した海鳥の姿が見えたかもしれません。このようにして長距離航海を行った人々はハワイ諸島に到達したのではないでしょうか。
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ホクレア号の航海軌跡(1980年度) |
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ポリネシア海域と長距離航海術の消滅
ハワイ諸島の発見と前後し、ポリネシア人たちは南東のイースター島(ラパヌイ)や南西のニュージーランド(アオテアロア)にも到達しました。ハワイとラパヌイ、そしてアオテアロアを結ぶ太平洋上の巨大な三角形内には数多くの島がありますが、これらを総称してポリネシア(ポリは「多くの」、ネシアは「島」の意味)と呼びます。その後、タヒチやトンガ、サモアなどからも、付近の島々を経由してハワイ諸島に入植したと考えられています。いずれの島でも高度に航海術が発達しましたが、18世紀末にキャプテン・クックが西欧人として発見した頃には、こうしたかけがえのない伝統文化は消滅していました。ホクレア号の航海術も、ミクロネシアにわずかに残る航海士から学ぶことによって再現されたものです。
トップページはハワイ島カラパナ付近に注ぐ溶岩と噴煙です。次回は花物語(23)と題し、コアの木についてお話しする予定です。
「ホクレア号 横浜到着」(2008年6月21日掲載)
「ホクレアでの航海生活」(2007年6月21日掲載) |