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ラバに乗って断崖絶壁を下る |
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カラウパパはモロカイ島の中央北部に突き出た小さな半島で、周囲を荒れた海に、背後を断崖絶壁に囲まれた陸の孤島です。地の利の悪いことから長く無人の状態が続きましたが、12世頃に農地として開墾されました。18世紀後半になると、この土地に多くの人たちが住みつきはじめます。すべてハンセン病と呼ばれる患者たちでした。
先住のハワイ人は西欧人との接触によってさまざまな伝染病に罹り、当時の人口が10分の1になるほど深刻な影響をこうむりました。そのような病のひとつがハンセン病でした。最初の患者は1840年に記録されています。それから30年ほど経った1868年、カメハメハ5世の命令により、ハンセン病患者の隔離施設が作られました。彼らは二度と家族や友人と会うことを許されず、生き別れを強制されたのです。
西欧人が住みはじめたとはいえ、当時のハワイ社会はまだアフプアアと呼ばれた小さな社会集団の伝統が存在していた時代でしたから、病が進行してひどい外観になった患者を隠し、最後まで面倒を見たケースも少なくありませんでした。しかし、着実に収容は進み、カラウパパは外部から隔絶されていきました。それは文字通りの意味の隔絶で、一般社会との交流はほとんどなく、「放り出された」としか表現できない状況が続いたのです。
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カラウパパの中心部 |
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病だけでなく、社会からの隔絶という二重の苦しみを背負わされた人々に対し、生涯を彼らのために捧げた人物がいました。ベルギー出身のダミアン神父です。(※彼の詳細については「ダミアン神父の足跡を訪ねて」をご覧ください。)ここでは彼が着任したモロカイ島カラウパパの自然と、そこに住みついた人たちの足跡を訪ねます。
ハンセン病は1946年に治療法が見つかり、半島に閉じこめられていた患者の多くは外へ出ましたが、いまもその一部はこの半島に残って生活を続けています。あまり知られていませんが、ここには日系人の患者も収容されていましたし、晩年、ハンセン病に罹った神父を治療するため、日本人医師が関わっていたこともあり、わたしたち日本人にとっても縁の深い場所です。
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教会員の聖書や眼鏡ケースがそのまま置かれている |
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カラウパパを訪れる方法は3通りあります。ミュール(ラバ)か徒歩で崖を降りるか空路で入る方法です。もちろん船でも入れますが、一般公開はされていません。いずれの方法で訪れるにせよ、訪問者はカラウパパの管理団体が用意するバスに乗って移動することになります。
ハワイ州はニイハウ島とカウアイ島を所轄するカウアイ郡、オアフ島と州都ホノルルを管轄するホノルル郡、マウイ島、モロカイ島、ラナイ島を管轄するマウイ郡、それにハワイ島を管轄するハワイ郡で構成されていますが、カラウパパは隣接するカラヴァオとともにカラヴァオ郡という特別行政区域となっており、いずれの郡にも所属しません。
海に向かって半島の付け根に切り拓かれたカラウパパ地区はもう何十年も大きな変化はありません。2008年現在で25名のハンセン病を患った人たちがここに住みつづけており、彼らの世話をするための職員と、国立歴史公園に指定されたため、公園関係者を合わせた120名に満たない人々がここで暮らしています。教会や記念館、土産物店、雑貨屋、ガソリンスタンドなどがあり、人々はわたしたちと変わらない生活を続けていますが、ツアーが行われている間はあまり外へ出ることはありません。つまり、ここを訪れる外部の者たちに対する違和感が、彼らにはまだ深く残っていることを意味します。ガイドはカラウパパでカメラを向けてはいけない場所について簡単に説明をしてくれます。ここに掲載した港の風景の、向かって左側はそうして地域のひとつです。
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手の不自由な患者のために工夫されたスプーン |
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しかし、彼らはわたしたちの訪問を嫌っているというわけではないようです。カラウパパで起きたことが歴史のなかに埋没することなく、いまも語り継がれることを願うハンセン病体験者は少なくありません。町の中にある小さな記念館には患者に縁のあるものがいくつか展示されています。そのうちのひとつが左の写真のスプーンです。手が不自由になった患者のために、柄にゴムのチューブを通して丸め、持ちやすいように工夫したものです。このスプーンの持ち主だった人の名前は「トヨ」とあり、日系人であった可能性があります。
カラヴァオから先にはワイコル、ペレクヌ、ワイラウという深い渓谷が連なっていて、モロカイ有数の景観を堪能できます。ただし、島の植物のほとんどは外来の植物で、原生の自然は残っていません。それでも地形は昔と変わらず、美しい海岸線は当時を彷彿とさせてくれます。半島にある教会のひとつに、生涯をハンセン病患者のために捧げたベルギー人神父ダミアン師の墓があり、十字架には多くの人たちがかけたレイで飾られています。
追記
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ダミアン神父の墓 |
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ダミアン神父がハンセン病に罹ったとき、日本の漢方医である後藤昌直がカラウパパに滞在し、神父の治療を行いました。後藤医師は明治18年にハワイ王国に招かれ、ダミアン神父をはじめとするハワイのハンセン病患者の診療に尽力しました。神父は後藤医師の漢方や温熱療法によって一時は症状が軽くなりました。彼の献身的な治療にもかかわらずダミアン神父は天に召されましたが、後藤医師の働きは長く人の記憶に残ることとなりました。
トップページの写真は崖の上から見たカラウパパの全景です。次回はハワイ文化に欠かせない香りの植物、マイレについてお話しします。
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