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コーヒーの栽培と農園史
近藤純夫
開拓初期の農耕具
開拓初期の農耕具
 植物学的な知識について以前にお話ししました。今回はハワイ島のコナ地区がコーヒー栽培を行うのに適した理由と、農園を支えた日系人についてお話しします。

 コーヒー(コーヒーノキ)は、アラビカ種、ロブスタ種、リベリカ種の3種を中心に世界の温暖な気候で栽培されています。ハワイでよく知られるコナ・コーヒーは、アラビカ種のうちのティピカ亜種で、樹高は4〜7mほど。コーヒー農園ではそれを2〜3mの高さに調整しています。おいしいコーヒー豆を収穫するためには、気温と湿度が重要な役割を果たします。高度が同じならハワイはどこでも似たような気温のように思われますが、コーヒー栽培では「変化」が重要な要素となります。

 ノース・コナとサウス・コナという2つの行政区にまたがるコーヒー農園地区を、地元ではコーヒー・ベルトと呼んでいます。この地域には平均して年に1600mmほどの降雨があり、標高300m前後から700mほどのところに農園は広がっています。

現時点で樹齢114年を数えるコーヒーノキ
現時点で樹齢114年を数えるコーヒーノキ
 ハワイ島は冬季を除き、たいていは北東から湿った風が吹きつけます。貿易風と呼ばれるこの風は、島の中央にそびえ立つマウナ・ケアやマウナ・ロアに行く手を阻まれて上昇し、島の北東部に雨をもたらします。湿った風の一部は島西部のフアラライにも到達しますが、雲は山を越え、その一部をコーヒー・ベルト地帯に落とすのです。その時間はおおよそ決まっていて、夕方の4時前後です。この定期的な雨がコーヒーノキに良い影響を与えます。植物の多くは1日の間に適度な寒暖の差があり、乾いた風と適度な雨、ほどよい日照時間、湿り気を帯びながらも水はけの良い土地を与えられることで、高品質の木が育ちます。

 ハワイ最初のコーヒーは1813年にホノルルに植えられたものという記録がありますが、このときはうまく育たなかったようです。その後の1824年、カメハメハ2世とカママル王妃がイギリスで麻疹にかかって逝去した際、国王夫妻のなきがらをハワイに運ぶ途中、同行したオアフ島知事のボキが、ブラジルのリオデジャネイロでコーヒーの苗木を入手して持ち帰りました。このコーヒーは、コオラウ山脈の麓にあたるマキキ渓谷とマノア渓谷にあった知事所有の農園に植えられました。これがハワイで最初に定着したコーヒーノキだとされます。しかし、気象条件などが影響し、農産物としてはよい結果を得られませんでした。

初期の焙煎機
初期の焙煎機
 1828年、アメリカ人宣教師サミュエル・ラグエルスがボキの農園にあった木を、ハワイ島コナのケアラケクア地区にある自宅に移植したのが、ハワイ島におけるコーヒー栽培のスタートでした。ただし農産物としてではなく、観賞用として植えられたものです。

 やがて産業として関心が持たれ、コーヒー農園は次第に諸島全体に広がっていきましたが、ハワイでの生産コストは高く、次第に国際競争に負けていきます。1860年代にはハワイ島西部のコナ一帯と、北部のハマクアを除き、サトウキビ畑に代わっていきました。栽培したコーヒーのほとんどは輸出されることなくハワイ諸島内で消費されたので、知名度はほとんど上がりませんでした。

 厳しくなる一方の農園経営を辛うじて続けているうち、コナ・コーヒーは少しずつ国際的な評価を得るようになっていきました。このことに加え、1890年代にはコーヒーの国際価格が高騰し、それがさらなる経営の追い風となりました。当時、作家のマーク・トゥエインはコナ・コーヒーを愛し、新聞記事にも書いています。

小規模農園でのコーヒー豆の焙煎
小規模農園でのコーヒー豆の焙煎
 20世紀を迎えてすぐの頃のコーヒーノキがコナ地区のグリーンウェル農園にまだ数十本残っており、小木ながらもしっかり実を付けています。

 コーヒー経営が再びうまみのあるビジネスとなったため、サトウキビを耕作していた農家のなかには再びコーヒー農園に転換しようとしたところもありましたが、販売が軌道に乗る前に再び、コーヒー相場は下落しはじめたのです。経営環境の厳しさは前回以上のものでした。そこで白人経営者たちは農園の運営に評価が高かった日系人に最後の望みを託しました。農園を5エーカーずつに分割して貸与し、収穫物のおよそ3分の1を地代として徴収したのです。

 収穫したコーヒーは「よろず屋」と呼ばれる仲介業者の手を経て売りさばかれました。農家はツケで日用品を購入し、コーヒーの収穫時に精算する方法を取りましたが、これはサトウキビ農園での支払い習慣を反映させたものです。よろず屋はパーチメント・コーヒー(脱穀前の乾燥させたコーヒー豆)を問屋に販売しました。農園経営は次第に回復し、20世紀初頭にはコーヒー園の約80%が日系人の手によるものとなりました。ただし、地代などの条件は改良されたものの、今も土地のほとんどは日系人の手に渡っていません。

1938年当時のウチダ・ファミリー
1938年当時のウチダ・ファミリー
 しかし、コナ・コーヒーが国際的な名声を浴びるのはそのずっと後のことです。1970年代頃までコーヒー豆は地元のコーヒー協同組合が一括管理して大手に引き渡していたので、ブランド力はなかなか付きませんでした。しかし、1979年に農家が個人的な輸出をはじめたのをきっかけに、コナ・コーヒーの名声は世界に広がり、今日の地位を築き上げたのです。

 その後は順風満帆の歴史が続いているように見えますが、コーヒーの国際価格はアップダウンが激しい上に、悪天候で不作の年もあります。最盛期に約600ほどあったコーヒー農園は統廃合が繰り返され、今日ではおよそ500ほどと言われています。

コーヒー博物館
コーヒー博物館
  コナ地区における日系人と農園の歴史は、グリーンウェル農園の隣にあるコーヒー博物館に残されています。この建物はかつてウチダ・コーヒー・ファームが所有してもので、現在は博物館として保存されています。ここにはいまも数多くの日系人をルーツとするコーヒー農園経営があります。

 トップページはコーヒー博物館に隣接するグリーンウェル農園です。 次回はオアフ島ハワイカイにある人気トレイルのひとつ、クリオウオウ・リッジ・トレイルについてお話しします。


【関連記事】

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